中高年応援チャンネル 57歳 地球旅行 日記

人間と呼ばれている生物を操縦して地球を旅行中。自分自身の為の備忘録。

神へ帰る 第10章 112p~126p


「神へ帰る」(神との対話シリーズ)
ニール・ドナルド・ウォルシュ著
112ページから転載
第10章
あなたの人生で起こるすべて(あなたの死も含めて)の因はあなただ。


ニール
 すばらしいですね。ほんとうによくわかりました。ありがとうございます。
ところで、できたらちょっと話を戻したいんですが。少しお聞きしにくいことなんですよ。



 いいよ。どうぞ。


ニール
 今回の対話で、誰でもみんな自分で自分の死を引き起こすのだと初めて聞いたとき、私がすぐに思ったのは、もしそれがほんとうなら、死はすべて自殺になるんじゃないかってことでした。あれからずっと、そのことが気になっているんです。



 それは正確じゃないね。
誰もが自分で生涯を終わらせるといっても、意識のレベルで故意にそうすることを選んでいるという意味ではない。それに、ある条件や状況から逃れるためにそうする、ということでもない。
何かを引き起こすことと、それを意識的に選ぶかどうかは、まったく違うからね。


ニール
 どういうことですか? わからないなあ。



 あなたは事故を起こすかもしれないが、だからといって、事故を起こそうと意識的に選んだことにはならないだろう。


ニール
 なるほど、そういうことですか。



もっとはっきりさせようか。あなたの人生で起こるすべて(あなたの死も含めて)の因(もと)はあなただ。ほとんどのひとは意識的には気づいていないがね。


ニール
 でも、そのことにひとが意識的に気づいているとしたら、だって、人びとに意識的に気づいてもらうことがこの対話の目的ですよね。その人が死ぬのは自殺だってことになりませんか? その考え方に照らせば、生涯を終えることの因には必ず本人がいるわけでしょう?
わたしは何か誤解していますか?



 死が自殺であるためには、二つの条件が必要だ。
①自分が何をしようとしているかを認識していること。つまり、意識的に死を選択すること。
②人生を完了させるためではなく、そこから逃れるために死を選択すること。
この対話の目的のひとつは、あなたがたに肉体的な生命の神聖さをわからせること。身体に宿る生命が言葉にならないほどの贈り物であると理解させることだ。
以前、死は力強い創造のときだと言ったが、そのとおりなのだよ。しかし、それはあることを「するため」のものであって、あることから「逃げるため」のものではない。


ニール
 自殺はとても大きな苦痛がつきまとうので、取り上げたくないくらいなんですけどね。
もちろん、その苦しみを最初に味わうのは、苦悩のはてに自分で人生に終止符を打とうと決意する当人で、そのあとは家族や友人たちですね。自殺に関係するみんなの気持ちを楽にしてあげることはできるんでしょうか?



 自殺したひとはだいじょぶだ。オーケーだとわかれば、気持ちが楽になるだろうね。
そのひとたちも神に愛されていて、決して見放されることはない。ただ達成しようとしたことができないだけだ。自殺を考えてるひとは、そこをよく理解することが大切だよ。


ニール
 それじゃあ、自殺しても罰せられることはない、とおっしゃるんですか?



 あなたがたが「あの世」と呼んでいるところには「罰」などというものはない。
自殺によって罰せられるのは、遺されたひとたちではないか?
遺されたひとたちは信じられないほどの衝撃を受けるし、二度と立ち直れないひとだっている。みんな、とてつもない喪失感を味わう。生涯、自分を責めつづけるひとも多い。自分は何か間違ったことをしたのだろうかと考え、何を言ってやれば自殺させないですんだのだろうと悩み苦しむ。
悲しいことに、自分の人生に終止符を打つひとたちは、これでものごとが変わると想像しているが、じつはそうではないのだよ。
何かから逃れるために人生を終わらせようと考えても、それは不可能なことを考えているだけなのだよ。
つらいことを避けたいと願うのは当然だ。それもみな、人間が踊りつづけているダンスの一部だよ。しかしこの場合には、ひとは魂の経験を遠ざけようとしているが、魂はその経験から逃れるためではなく、経験をするために身体に宿ったのだ。
その経験がつらいとか困難だからと、ひとは何もない虚空に逃れようとする。何もぶつからずにすみ、怖いものもない虚空に入ってしまおうとする。
だが、ひとは虚空に入ることはできない。なぜなら入るべき虚空はないから。虚空などは存在しない。
この宇宙のどこにも虚空はない。いや、どこにもありはしない。「何もないところ」などないのだ。
どこへ行っても、そこは何かで満たされている。


ニール
 それは何ですか? 何で満たされているんですか?



 あなた自身の創造物によって、あなたはどこへ行っても、あなたの創造物とぶつかる。
逃れることはできない。それに、逃れたいとも思わない。なぜなら、その創造物を生み出したのは、自分自身を再創造して楽しむ(re-create)ためだから。したがって、その創造を回避しようとか、避けようというのは、あなた自身のためにならない。虚空に躍りこむなんて、できないことなんだよ。
べつの言い方をしようか。虚空のダンスは不可能だ。


ニール
 なるほど、うまい言い方ですね。とても印象的な表現だ。



 わたしはよく、こういう言葉の使い方をする。こうすると、あなたがたも伝えたいと思うメッセージを覚えやすいし、忘れないでいられるからね。


ニール
 そうですね、きっと忘れないだろうな。「虚空のダンスは不可能だ」



 そう、不可能だ。なぜなら、死ぬときの状況を、その後も生きつづけることになるから。


ニール
 それはとても強烈な言葉ですね。



 そのつもりだよ。


ニール
 ここでまたこんなことを言うと、話しを蒸し返すことになって申しわけないんですが、人生に自分で終止符を打つってことですけれど。前に、死は素晴らしいことだとおっしゃいましたよね。死がほんとうに素晴らしいのなら、どうしてつらい人生を終わらせようと思っちゃいけないんですか?



 あなたがたが「死」と呼ぶことは素晴らしいが、しかし「生命/人生」以上に素晴らしいわけではない。それどころか、死とは、違うやり方で続く、生命/人生なんだよ。
このことはとくにはっきりさせておきたい。あなたは死のあちら側で自分自身と、それにこの世にいたときにたずさえていたすべてと出会うだろう。それから最も皮肉なことを実行する。
ひとは、いちばん最近の人生で取り組まなかったことに取り組むために、自分にふたたび肉体的な生命/人生を与えるのだよ。


ニール
 また肉体的な生命/人生に戻るんですか? 非物質的な霊的な領域で「おさまる」わけにはいかないんですか?


神 
 いや、そうはいかない。あなたはどんな経験をするかを霊的な領域で選択する。その選択したことを経験する場を提供するのが、肉体的な生命/人生の目的だから。
だから肉体的な生命/人生を離れても何からも逃れられず、また肉体的な生命/人生に、
つまり、逃れようとした状況に戻ってくるだけだ。ただし、戻ってきたらまた一からやり直すことになる。
これを「罰」とか「要求」「重荷」と考えることはないよ。あなたは、それが自己創造のプロセスの一環だとわかって、自由意志でそうするのだから。それに、あなたは自己創造のために存在しているのだからね。


ニール
 すると、いま取り組んでいることにまた取り組むんですか?



 そうだよ。生命/人生はそのためにあるのだから。
生命/人生をそんなふうに使えば、新しい違った生命/人生を創造する道具(ツール)として死を使う用意ができたときに、あなたは死ぬだろう。自殺とは逃げるために死を使うことだが、そんなことをしても同じ生命/人生を、それに同じ課題や経験を何度も創り出すだけだ。


ニール
 そういう説明は聞いたことがありませんでした。それで、いろいろなことがわかりますね。



 だから、あなたがたは逃げるための道具として死を使おうとすることもあれば、創造するために死を道具として使おうとすることもあるだろう。前者は不可能だし、後者なら信じがたいほど素晴らしいことが起こる。


ニール
 でも、それってちょっと批判がましくはないですか? つまり、自殺は「悪い」ことだと批判していませんか? 神は批判しないものなんでしょう?



 同じ人生の課題や経験を何度もくり返して創り出すことは、べつに「間違って」はいないし、「悪い」ことでもないよ。同じ課題に何度もぶつかりたいなら、そうすればいい。
何でもそうだが、ここでもあなたは好きなようにしたらいい。
ただ、その課題と正面からぶつかることになる。またくり返しだね。
もういやだ、現在の課題とぶつかりたくないとひとが感じるのは、自分がたったひとりで取り組まなくてはならないと思うからだ。これは誤解なのだが、多くのひとがそう思っている。
孤独はいまの世界における最大の苦しみだね。
感情的、物理的、霊的な孤独。ひとりぼっちで、傷つき、重荷を背負っていて、それを誰も理解してくれないし、頼るべき何の力もない、と感じることは確実に絶望を生む。
終わりのない絶望に直面していると、ついには逃げることしか考えられなくなる。だが、逃げることはできない。避けたいと思ったことを、はじめからくり返すだけだ。
だからこそわたしはここで、あなたがたには頼る力があると言うのだし、あなたもそのことを世界中のひとに伝えてほしい。
わたしがそばにいることを絶対的に知るためには、わたしを呼びかけさえすればいい。
絶対の信頼をもって手を差しのべさえすれば、わたしは手を差しのべてあげる。


ニール
 しつこいようですが、ひとつおたずねしてもいいですか?



 いいとも。


ニール
 どうして、こっちから手を差しのべなければ、あなたは手を差しのべてくださらないんですか? あなたが全知の神なら、わたしたちに助けが必要だってこともわかっているはずでしょう。
ほんとうにこのうえなく慈悲深い神なら、わざわざお願いしなくても助けてくださるはずじゃないんですか? わたしたちが打ちのめされてぐったりと膝を折っているなら、どうしてそのうえひれ伏してお願いしないと救ってはもらえないんですか? あなたがこのうえなく愛情深い神なら、こい願わなくても、その愛情で助けてくださってもいいんじゃないですか?
それから、ついでですが、こう叫ぶひとたちには、どうおっしゃってるんでしょうか。
「わたしはあなたに呼びかけたが、応えてはくださらなかった! わたしが「神」に助けを願わなかったと思われるんですか? とんでもない、どうしてこれほど絶望したと思われますか!「神」にさえも見放されたと思うから、これほど絶望しているんですよ!
わたしはまったく見捨てられたんだ。もう、こんな目にあうのはいやだ。耐えられない。おしまいです。たくさんだ」



 それでは、言おう。
ここで、奇跡の可能性について考えてもらいたい。あなたがたがわたしの解決策を受けとる経験をしていないのには理由があるのだが、その理由はいまは重要ではない。いま重要なのは、いま、たったいま、あなたの前に答えがあるかもしれない可能性について考えることだ。目を見開ければ、見えるだろう。理性を開けば、わかるだろう。心を開けば、応えがあると感じるだろう。
それでは、言おう。
絶対的に知って、わたしに呼びかけるときにだけ、あなたは答えが与えられていることに気づくだろう。なぜなら、「あなた」が知って、「あなた」が感じて、「あなた」が宣言すること、それだけがあなたの真の経験になるから。絶望のうちにわたしに呼びかけても、わたしはそこにいるが、しかし絶望があなたの目をくらませ、見えなくするだろう。
それでは、言おう。
あなたが何をしようが、どんなことを引き起こそうが、取り返しがつかず、癒されることも不可能なほど恐ろしいことはありえない。わたしはあなたをふたたび完全にすることができるし、また、そうする。
しかし、あなたは自分自身を批判することをやめなくてはいけない。いちばん強力な批判をするのはあなた自身だ。ほかのひとたちは外側から見て批判するかもしれないが、しかしあなたを知らないし見ていないから、そんな批判は効果がない。その批判を自分の批判として取りこんで影響を受けることはない。そんな批判は無意味だから。
ほかのひとが真のあなたを見抜くまで待っていることはない。ほかのひとたちは、自分自身の苦痛を通してあなたを見ている。
そうではなく、たったいま、このわたしが驚嘆と真実のなかであなたを見ていること、あなたを完璧だとみていることを知りなさい。あなたを見るわたしには、たったひとつの思いしかない。
「これがわたしの愛する者。わたしがおおいに喜びとする者だ」
それでは、言おう。
「神の王国」に赦しは必要ない。神は決して、腹を立てたり傷ついたりしない。宇宙全体のなかで大事な問題はたったひとつしかないし、それはあなたがたに罪があるかないかなどとは関係がない。大事なのはあなたがたのアイデンティティ、あなたがたは何者かということだ。あなたがたは真の自分を知っているだろうか? 知っていれば、孤独な絶望も、自分はとるに足りないという思いもすべて消えうせ、絶望はあなたがたの人生/生命という奇跡に対する驚異の認識に変わるだろう。そして、あなたがたという奇跡の認識に。
そこで、最後に言おう。
あなたがたはいまこの瞬間、10万の天使に囲まれている。
さあ、その天使たちの援助を受け入れなさい。それから天使たちの贈り物をほかのひとに渡しなさい。与えることで受け取ることができ、癒すことで癒されるのだから。
あなたが待つ奇跡は、ずっとあなたを待っている。あなた自身がほかのひとの待つ奇跡になったとき、それがわかるだろう。
さあ、行ってあなたの奇跡を実行し、あなたの死が最大の悲しみを言明するときではなく、最大の栄光のときとなるようにしなさい。
死を破壊ではなく創造のための道具に、後退ではなく前進のための道具にしなさい。
この選択によって、あなたは人生/生命そのものを称え、あなたがまた物質的な身体に宿っているあいだに、人生/生命があなたの最大の夢を運んでくる。
あなたの魂の平和がついに実現される。


ニール
 ありがとうございます。
そのお言葉、ほんとうにありがとうございます。
そのお言葉がすべての人間に届くことを願い、そうなるように祈ります。
それについて、もうひとつだけ質問があるんですが、ほかのひとに、医師や愛するひとに、人生の終止符を打つための手助けを頼むひとについては、どうですか?



 安楽死のことだね。それはまったく別の話だ。それは現実的なあらゆる意味で人生がすべて終わっていて、死のプロセスの間断のない苦しみと尊厳の完全な喪失以外はもう何も残っていないことを認識したときのことだね。
安楽死を自殺と同じと見なすことはできない。活動的でそれなりに健康な暮らしをしていながら自殺を考えることは、きわめて特殊なひとつの判断だ。そして、あらゆる医学的な証拠からみて、どう考えても終わりが間近い人生に終止符を打つことは、まったくべつの種類の判断だよ。
あらゆる医学的な証拠からみて、肉体的な人生/生命が終わっているひとは、こう問いかけることを選ぶかもしれない。
「この最期の苦痛と屈辱に耐える必要があるのですか?」と。
それぞれの魂にはそれぞれに正しい答えがあり、どの魂もこの質問に間違った答えをすることはありえない。なぜなら「間違った」答えなどありえないから。


ニール
 なるほど、違いがはっきりわかりました。道理をわきまえたひとなら誰だってわかったと思います。




すべての人を愛するようになるための第一歩は、あなた自身を愛すること。(中略) もし、あなたが自分を無条件に愛せないのなら、他人を無条件に愛することもできないわけだ。これを覚えておくといい。自分がもっていないものを、人に与えることはできない。 
ニール・ドナルド・ウォルシュ

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