中高年応援チャンネル 57歳 地球旅行 日記

人間と呼ばれている生物を操縦して地球を旅行中。自分自身の為の備忘録。

①第3章「ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの」第8章「ニサルガダッタ・マハラジとの対話」

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ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの —時間以前からあった永遠の真実— - ラメッシ・バルセカール, ��木悠鼓 - Google ブックス


第3章 死に直面して 
31p~35p転載


訪問者 数日前、私の一人息子が交通事故で亡くなりました。私は精神的強靭さをもって
彼の死を受け入れることがほとんどできません。近親者とのそういった死別に苦しむのは、
私が最初ではないことを知っていますし、また私たち一人ひとりもいつか死ななければならないことも知っています。そういった苦境にある自分自身や他人を慰めるために人が採用する通常の方法を用いて、私は自分のマインドの中に慰めを求めました。それにもかかわらず、残酷な運命が人生の絶頂にいた私の息子からすべてを奪った、という悲劇的事実に戻ってしまうのです。「なぜなんだ? なぜなんだ?」と私は自分自身に尋ね続けています。私は自分自身の悲しみを乗り越えることができません。


マハラジ (数分間、目を閉じて座っていたあと)、私が深く悲しんでいるとあなたに言っても、それはあなたのマインドに響かず、役に立たない。私が深く悲しんでいるのは、自己
(個人としての「自分」)が不在なときには、他者は存在せず、あなた方すべての中に自分自身が映し出されているのを私は見るからだ。明らかにあなたは単なる同情のために私に会いに来たわけではない。そういったものは、親戚や友人たちからたくさん受けたに違いない。
覚えておくべきことは、人は人生を生きるなかで、毎年毎年、通常の喜びを楽しみ、通常の
苦痛を苦しむわけであるが、決して人生をその真の視点で眺めることがない。真の視点とは
何だろう? それはこういうことだ。【どんな「自分」も、どんな「あなた」もいない。つまり、そういったどんな実体も存在しえたことが一度もない】あらゆる人はこの理解をもつべきで、その理解をもって自分の人生を生きる勇気をもつべきだ。
 友よ、あなたはこの勇気をもっているだろうか? それとも、あなたが自分の悲しみと呼んでいるものの中で、もがかなければならないのだろうか?


訪問者 マハラジ、失礼をお許しいただきたいのですが、私はあなたが今言ったことをよく
理解できません。しかし、私は実に驚愕し、動揺しております。あなたは私の存在の核心を
暴露し、そして、あなたがそれほど簡潔に言った事は人生への黄金の鍵のように思えます。
どうかあなたが言ったことをもっと詳しくお話していただけないでしょうか? 正確に私は
何をしなければならないのでしょうか?


マハラジ する? 何かをする? 絶対的に何もない。ただ一時的なものを一時的なものとして、現実ではないものを現実でないものとして、偽物を偽物として見れば、あなたは自分
の本質を理解することだろう。あなたは自分の悲しみに言及した。あなたは今までに「悲しみ」を真正面から見て、それが実際何なのか理解しようとしたことがあるだろうか?
 自分が深く愛した誰か、あるいは、何かを失うことは当然悲しみをもたらす。そして、死とは絶対的に最終的な完全なる消滅なので、それによって引き起こされる悲しみは緩和され
ないものだ。しかし、もし知的に分析すれば、この圧倒的悲しみでさえ長く続くことはできない。あなたは正確に何を悲しんでいるのだろうか? その始まりに戻っていきなさい。あ
なたとあなたの妻は、あなた方がある特定の肉体を息子としてもち、その息子がある特定の運命をもつということを誰かと契約したのだろうか? 事実は、彼の妊娠自体が偶然だったのではないだろうか? そして、その受精卵が子宮の中で多くの危険を乗り越えたこともまた別の偶然だった、そうではないだろうか? その赤ん坊が男の子だった、それももう一つの偶然ではないだろうか? 言い換えるなら、あなたが自分の「息子」と呼んでいるものは
偶然の産物、出来事であり、あなたはそれに対してどんなときも何のコントロールもまったくできなかったのであり、今その出来事が終わりを迎えたのだ。
 あなたは正確には何を悲しんでいるのだろうか? あなたは自分の息子が経験できなかった、これからの年月での少ない喜びと多くの苦痛の経験に対して悲しんでいるのだろうか?
あるいはあなたは、もはや彼から享受できない喜びや便宜に対して、本当は深く悲しんでいるのだろうか?
 よく聴きなさい。これらすべては偽の観点からの見方であることを! とはいえ、あなたは今までの私の話について来ているかな?


訪問者 残念ながら、私は驚愕し続けております。確かに私は、あなたが今言ったことを理解しています。ただ、これらすべてが偽のレベルにあるとあなたが言ったのは、どういう意味ですか?


マハラジ ああ! 私たちはこれから真実に向かうところだ。真実としては、あなたは一人
の個人ではないし、「人」でもないことを理解しなさい。その人、あなたが自分だと思っているその人は、想像の産物でしかなく、その自己はその幻想の犠牲者である。「人」はそれ
自身では決して存在することはできない。一人の人がいると間違って信じ、自分がそれであ
ると意識しているのはその自己、意識なのだ。あなたの視点を変えなさい。世界を自分と言う人の外側にある何かとして見てはいけない。あなたが自分だと想像しているその人を世界
の一部と見なさい。ー(実際は夢の世界である)ーあなたは意識の中の見せかけとして夢の
世界を認識し、マインドの外からすべてのショーを眺めるのだ。あなたは意識の中味であるマインドではないことを覚えておきなさい。あなたが自分自身を肉体 - マインドに一体化し
ているかぎり、悲しみと苦しみに傷つきやすくなる。マインドの外では父親であるとか息子であるとか、これであるとかあれであるとかではなく、ただ存在だけがある。
 あなたは時間と空間を越え、今この地点でのみ時間と空間に接触している。もし時間と空間に接触していなければ、時間も空間もなく、どんな経験にも傷つかない。これを理解し、
もう悲しまないようにしなさい。いったんあなたが、この世界には自分自身のものと呼べるものも、呼ぶ必要のあるものも何もないことを理解するとき、舞台やスクリーン上で演劇や映画を見るように、称賛しながら楽しみながら、そしておそらく苦しみながら、深いところ
ではまったく不動で、あなたは世界を外側から眺めるのだ。


★この本も自分自身の本当の正体が肉体ではなくて、永遠の意識だと悟るのに参考になる。


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★第8章 真我はマインドを超えている
39p~43p転載


質問者 子供の頃、忘我の境地、完全な幸福状態をたびたび体験しましたが、後にそれは止まってしまいました。インドへ来て以来、特にあなたに出会って以来、その状態がふたたび現れはじめています。それでも、どんなに素晴らしい状態であっても持続しません。それは来ては去り、いつふたたび訪れるかもわかりません。


マハラジ マインドそのものが不動ではないのに、マインドのなかにある何かが不動でありうるというのだろうか?


質問者 どうすれば私のマインドを不動にできるのでしょうか?


マハラジ 不動ではないマインドが、それ自身を不動にすることができるのだろうか? もちろんできはしない。うろつきまわるのがマインドの本性なのだ。あなたにできることは、意識の焦点をマインドの彼方へと移行させることだけだ。


質問者 どうすればいいのでしょうか?


マハラジ 「私は在る」という想念以外のすべての想念を拒絶しなさい、はじめのうち、マインドは抵抗するだろう、しかし忍耐と根気をもってすれば、それは降伏し、静かになるどろう。ひとたびあなたが静かになれば、あなたからの干渉なしに、ものごとは自発的にまったく自然に起こりはじめる。


質問者 このマインドとの長い闘いを避けることはできるのでしょうか?


マハラジ できる。生を起こるがまま生きなさい。ただ留意し、見守り、あるがままにものごとが起こるのを許して、生がもたらすままに、喜び、苦しみ、自然に行う。それもまた道なのだ。


質問者 それなら結婚し、子供をもち、仕事をして…幸せになることもできるのですね。


マハラジ もちろん。幸せになるかもしれないし、ならないかもしれない。あなたの歩調で歩くがいい。


質問者 でも、私は幸せになりたいのです。


マハラジ 真の幸福を、移り変わり過ぎ去っていくもののなかに見いだすことはできない。喜びと苦しみは容赦なく交互にやってくる。真の幸福は自己から来る。そして、それは自己のなかにしか見いだせないのだ。あなたの真我を見いだしなさい。それとともに、それ以外のすべてもやってくるだろう。


質問者 もし私の真我が愛と平和ならば、なぜそれはこうも落ち着きがないのでしょうか?


マハラジ あなたの真の存在に落ち着きがないのではない。その反映がマインドのなかに落ち着きなく現れるのだ。なぜなら、マインドは落ち着きのないものだからだ。それは水面に映る月が、風で揺らめくようなものだ。欲望の嵐がマインドと、マインドのなかの真我の反映である「私」を揺り動かし、千変万化(せんぺんばんか)に映しだす。しかしこのような動き、落ち着きのなさ、喜びと苦しみといった観念は、すべてマインドのなかに存在する。真我はマインドを超えて在り、関わることなくただ気づいている。


質問者 どうやってそれに到達するのでしょうか?


マハラジ たった今ここで、あなたは真我なのだ。マインドのことは放っておきなさい。覚めて、巻きこまれず、離れて在りなさい。そうすれば、超然と油断なく在り、来ては去りゆく出来事をただ見守ることが、あなたの真の本性の一側面であることに目覚めるだろう。


質問者 何か助けとなることを言ってください。


マハラジ 何が一番必要なのかはあなたが知っているはずだ。


質問者 私は落ち着くことがありません。どうすれば平和になれるでしょう?


マハラジ 何のために平和が必要なのだろう?


質問者 幸せになるために。


マハラジ 今、あなたは幸せではないのかね?


質問者 ええ、そうではありません。


マハラジ 何があなたを不幸せにするのだろう?


質問者 私は欲しくないものをもち、もっていないものが欲しいのです。


マハラジ なぜそれを、もっているものを欲し、もっていないものは気にかけない、というふうにひっくり返さないのかね?


質問者 私は快楽が欲しく、苦痛は欲しくないのです。


マハラジ 何が快楽で何がそうではないか、どうやって知るのだろうか?


質問者 過去の体験からです。もちろん。


マハラジ 記憶に導かれながらあなたは快楽を追求し、不快を避けてきた。今まで成功しただろうか?


質問者 いいえ。快楽は長続きせず、苦しみはふたたび入りこんできます。


マハラジ どの苦しみだろう?


質問者 喜びへの欲望と苦しみへの恐怖、どちらも惨めな状態です。純粋な喜びという状態は存在するのでしょうか?


マハラジ 肉体的あるいは精神的なあらゆる喜びには手段が必要だ。物理的、精神的な手段はともに物質であり、どちらもすたれ、使い果たされる。それらが生みだす喜びは、必然的にその強度と期間に限界がある。苦しみはすべての喜びの背景にある。苦しむがゆえにあなたはそれを欲しがる。だが、喜びの追求自体が苦しみの原因なのだ。それは悪循環だ。


質問者 混乱の構造は理解できますが、出口が見いだせません。


マハラジ 構造を調べること自体が道を示すのだ。つまるところ、あなたの混乱はあなたのマインドのなかにだけ存在している。そのマインドはけっして混乱に抵抗せず、それを理解しようともしてこなかった。マインドが抵抗したのは苦しみに対してだけだ。


質問者 それでは、私は混乱しつづけるしかないのですか?


マハラジ 油断なく在りなさい。問いかけ、観察し、調べ、混乱があなたや他人に何をし、どう作用するのか、混乱について何ができるのかをすべて学びなさい。混乱について明らかにすることで、あなたはそれらを一掃する。


質問者 自分の内側を見つめるとき、私のもっとも強い欲望は己の記念碑、自分を永続させる何かを作り出したいのだということが見てとれます。私が家や、妻や、子供を思うときでさえ、それは永続する確固たる自己の証明となるからです。


マハラジ では記念碑をつくるがいい。どうするつもりかね?


質問者 それが永遠のものであるかぎり、何を建てるかは問題ではないのです。


マハラジ あなた自身、何ひとつ永遠のものはないと知るだろう。すべては衰退し、朽ち果て、崩壊する、記念碑を建てる土台そのものが崩れ去っていくのだ。永続するような何を築くことができるというのだろう?


質問者 知的に、言葉の上では、すべてがはかないものだと気づいています、しかしそれでも、私のハートは永遠なるものを求めています。何か永続するものをつくりたいのです。


マハラジ それでは永続する何かをつくるがいい。そのようなものを何かもっているかね? あなたの身体もマインドも長続きはしない。どこかほかを探すべきだ。


質問者 永遠なるものを求めてきましたが、どこにも見いだすことはできませんでした。


マハラジ あなた自身が永遠なのではないだろうか?


質問者 私は生まれました、そして死んでいくでしょう。


マハラジ あなたが生まれる以前、あなたが存在していなかったと言えるだろうか? そして死ぬときになって、「私はもはや存在しない」と言えるというのだろうか? あなた自身の体験からも、あなたが存在していないと言うことは不可能だ。ただ。「私は在る」と言えるだけだ。他者もまた、「あなたは存在しない」と言うことはできない。


質問者 眠りのなかでは、「私は在る」という感覚はありませんでした。


マハラジ そんな決めつけたような言葉を吐く前に、目覚めの状態を一度注意深く調べて見るがいい。目覚めの状態は、マインドが空白になった隙間でいっぱいだとすぐに気づくだろう。完全に目覚めているときでさえ、あなたが覚えていることがいかにわずかかということに注意を払いなさい。眠りの間、あなたに意識がなかったとは言えないはずだ。ただ覚えていないだけなのだ。記憶の隙間が必ずしも意識の隙間であるとはかぎらない。


質問者 深い眠りの状態を記憶することはできるのでしょうか?


マハラジ もちろん! 目覚めている間の不注意な時を取り除くことが、眠りと呼ばれる長い放心状態の間隔を徐々に除去するだろう。あなたは自分が眠っていることに気づくようになるだろう。


質問者 しかし、永久なるもの、存在の永続性の問題はまだ解かれていません。


マハラジ 永続性とは時間の運動から生まれた、ただの観念にすぎない。時間もまた記憶に依存する。永久なるものと言うことで、あなたは無限なる時間を通して、変わることのない確かな記憶を表している。あなたはマインドを永遠のものにしたい。だが、それは不可能だ。


質問者 では、永遠とは何なのでしょうか?


マハラジ それは時とともに変化しないものだ。一時的な、はかないものを不滅にすることはできない。不変のものだけが永遠なのだ。


質問者 あなたのおっしゃることの意味は概してなじみ深いものです。私はこれ以上の知識は欲しくありません。ただ平和が欲しいのです。


マハラジ 求めさえすれば、欲するすべての平和は得られる。


質問者 私は求めています。


マハラジ ひたむきに求めなければならない。そして統合された生を生きなさい。


質問者 どうすればよいのでしょうか?


マハラジ あなたのマインドを落ち着かなくさせる、すべてのものからあなたを引き離しなさい。平和を乱す、すべてのものを放棄しなさい。もし平和が欲しいのなら、それを受けるに値するものとなりなさい。


質問者 もちろん、誰もが平和を受けるに値します。


マハラジ それを妨げない者だけが受けるに値するのだ。


質問者 いったい、どのようにして私は平和を妨げているというのでしょうか?


マハラジ 欲望や恐怖の奴隷となることによってだ。


質問者 たとえそれらが正当と見なされたときでもでしょうか?


マハラジ 無知や不注意から生じた感情的な反応はけっして正当化されない。清らかなマインドを澄んだハートを探し求めなさい、あなたに必要なものは、静かに油断なく自己の本性を探求することだけだ。これが平和へのただひとつの道だ。
 


★第9章 記憶の反応
44p~45p転載


質問者 ある人は、宇宙は創造されたと言い、またある人は、宇宙はつねに存在し、絶えず変容しつづけていると言います。ある人は、宇宙は永遠の法則に支配されていると言い、またある人は、因果律さえ否定しています。ある人は、世界は
実在すると言い、またある人は、世界はどのよな存在ももたないと言います。


マハラジ いったいどの世界についてあなたは尋ねているのだろうか?


質問者 私が知覚する世界です。もちろん。


マハラジ あなたが知覚する世界は実に小さな世界だ。それは完全に私的なものだ。それを夢と見なして放っておきなさい。


質問者 どうして世界を夢として見なすことができるのでしょう? 夢とは長く続かないものです。


マハラジ あなたの小さな世界が、どれほど長続きするというのかね?


質問者 つまるところ、私の小さな世界も全体の一部分です。


マハラジ 全体世界という概念も、あなたの私的な世界の一部ではないだろうか? 宇宙があなたのところにやってきて、あなたは宇宙の一部だと言いはしない。全体があなたをその一部として含んでいるという考えをつくりあげたのは、あなたではないだろうか? 実際に、たとえどんなに想像と期待で飾りたてていても。あなたが知っているのはあなたの私的な世界にすぎないのだ。


質問者 もちろん、知覚は想像ではありません!


マハラジ それ以外の何だというのだろう? 知覚とは認識ではないだろうか? 何かまったく知られていないものを感じ取ることはできるだろう。だが知覚することはできない。知覚は記憶をともなうものだ。


質問者 仮にそうだとしても、記憶がそれを幻想にするということはありません。


マハラジ 知覚、想像、期待、不安、幻想はすべて記憶に基づくものだ。それらの間にはほとんど境界線さえなく、互いに溶けこんでいる。すべては記憶の反応なのだ。


質問者 それでも、記憶は私の世界の実在性を証明してくれます。


マハラジ どれだけあなたは覚えているだろうか? 先月の三十日にあなたが何を考え、何を話し、何をしたか、記憶に基づいて書きだしてみるがいい。


質問者 確かにそこには空白があります。


マハラジ それほど悪くはない。相当量をあなたは覚えているはずだ。無意識の記憶が、あなたの住む世界をなじみ深くさせるのだ。


質問者 私の生きる世界が部分的で、主観的であることは認めます。あなたはどうなのでしょう? あなたはどのような世界に生きているのでしょうか?


マハラジ 私の世界はあなたの世界と同様だ。私は、私の知覚する世界であなたと同じように見、聞き、感じ、考え、話し、行動する。だがあなたにとってはそれがすべてで、私にとっては、それはほとんど無に等しい。世界が私自身の一部であると知っているため、あなたが食べた食事に注意を払わない以上に、私もそれに留意しないのだ。用意されてから食べる間、食べ物はあなたから分離して在り、あなたはそれに留意する。ひとたび飲みこめば、それに対してはまったく無意識になる。私は世界を食べてしまったのだ。だからそれについて考える必要はもはやないのだ。


質問者 それでは完全に無責任になるのではありませんか?


マハラジ どうして無責任になれるだろう? 私とひとつとなったものを、どうして傷つけるだろうか? その反対に、世界のことを考えずとも、何であれ私がすることは世界への恩恵となる。身体が無意識にそれ自身を正しく調整するように、私も絶えまなく世界を正すよう活動している。


質問者 やはり、あなたは世界の途方もない苦しみに気づいているのでしょうか?


マハラジ もちろん、あなた以上に気づいている。


質問者 それでは、あなたは何をするのでしょう?


マハラジ 神の目を通して見、すべてはこれでいいということを見いだすのだ。


質問者 いったい、どうしてすべてがこれでいいなどと言えるのですか? 戦争、搾取、国と民との悲惨な争いを見てごらんなさい。


マハラジ それらの苦しみはすべて人間のつくり出したものであり、それらを終結させるのは人間の力の内にある。人間を自らの行為の結果に直面させ、そのバランスを取らせるよう要求することで神は助けている。カルマ(因果応報)が公平さのために働く法則だ。それは神の癒しの手なのだ。

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