中高年応援チャンネル 57歳 地球旅行 日記

人間と呼ばれている生物を操縦して地球を旅行中。自分自身の為の備忘録。

意識に先立って ニサルガダッタ・マハラジとの対話

私はこのマハラジの本はまだ読んでいない。


意識に先立って ニサルガダッタ・マハラジとの対話
ジーン・ダン編集・高木悠鼓 翻訳


この本を深く理解しているYouTuberの解説動画があったので紹介します。
mandalacast(34本)

 
サンプルが読める↓

意識に先立って - ジーン・ダン, ��木悠鼓 - Google ブックス
2018

ニサルガダッタ、最晩年の書!『アイ・アム・ザット』と並ぶ代表作。意識を超えた究極の真実がここにある!多くの人を覚醒に導いた現代の巨星。
著者について
シュリー・ニサルガダッタ・マハラジ Sri Nisargadatta Maharaj


1897年4月17日-1981年9月8日 インドのムンバイ(旧:ボンベイ)生まれ。
子供のときの名前は、マルティ・シヴラムパント・カンブリ(Maruti Shivrampant Kambli)。
紙巻きたばこ、手巻きたばこの小売店を営んでいた。
1924年にスマティバイと結婚し、3人の娘と1人の息子がいた。
1933年、シッダラメシュヴァール・マハラジ(Siddharameshwar Maharaj)に師事した。
師は、「私は在る」(I AM)という感覚に意識を向けさせた。
2年半後に師は亡くなり、1937年インドを旅してまわった。その旅で悟りを得た。
その後、ムンバイに戻り生計のため小さな店を維持し続けた。
1951年から教え始めた。
1966年に店から引退した後、1981年9月8日、84歳で喉の癌で死ぬまで、
1日2回対話の機会を持ち、彼の家で訪問者を受け入れて教え続けた。
1973年に出版された"I AM THAT"(邦訳は『アイ・アム・ザット 私は在る』2005年、ナチュラルスピリット刊)は、北米とヨーロッパで認知され支持者を獲得した。


★レビューも読み応えがあったので転載!

上位レビュー、対象国: 日本
Cookie Monster
5つ星のうち5.0 感覚を破壊された
2018年8月31日に日本でレビュー済み


○対象となる読者
・一瞥を得つつある人。一瞥を得たが、目覚めの状態がなかなか定着しない人。
・「あなたは肉体でも、マインドでもない」といった主張が、実感を伴って理解できる人。


○かの有名な書物、『アイ・アム・ザット』との比較
・『アイ・アム・ザット』では質問者の理解の程度に合わせ、世俗的(具体的)な質問にも答えているが、本書ではそのようなことが殆どない。
死期が近づいていたからだろうか、本書でのマハラジの回答は極めて根源的・本質的なものばかりとなっている。
換言すると、枝葉の部分を省いた、核心的なことばかりが述べられている。


○本書の特色
・マインドには本書の内容は理解できないので、肉体やマインドとの一体化傾向が強い人には理解が困難と思われる。
・夢から覚める準備のできた人が本書を手に取れば、その人にとって本書は値千金の価値を持つようになる。
自己の背後にある広大なスペースこそが自己の本質であると気が付いた人が読むと、目覚めの深化・定着を促してくれる良きパートナーになると確信している。
・本書の内容を端的にいうと、1)あなたとあなたの肉体との一体化(同一化)を徹底的に破壊し、2)世界は幻想であることを悟らせるものとなっている。


○感想
・『アイ・アム・ザット』は私には少し回りくどく感じられたが、本書の記述は極めて簡潔であり分かりやすく感じられた。
・「世界は幻想であると悟ったのに、それを見ている”あなた”のことはどうして幻想だと思わないのか?」といった記述にはっとさせられた。
・ラマナマハルシと本質的に言っていることは同じだが、本書におけるマハラジの言葉の方が私には共鳴するところが多かった。
・「本書を理解できたから、私は悟った人間だ」と考えるのは危険だと思う。
それは、悟った人間というアイデンティティを自我が構築しているに過ぎないため。


○追記(2018/9/17)
・この世界は幻に過ぎないと理解したら、地上での生活がなおざりになってしまうのではないかと、私は常々危惧していましたが、それは違うとふと思いました。
自我としての「私」が溶解していなくなったとしても、必要な行動は私の体を通じて自然と起こるのだと実感しました。
自我としての私には、「今の私」があまり行動していないように見えるのは、単に、見栄やプライドに動かされることがなくなったからだと思います。
行動しなくなったのではなく、ただシンプルになっただけだと気が付き、安堵しました。


・振り返ってみると、今までの私の行動はほぼ自我に踊らされてのものでした。
それが、何だかこの上なく滑稽に思え、笑いが込み上げてきました。


〇追記(2018/10/24)
アドヴァイタの教えを学ぶ途上で、全てに意味が感じられなくなり、どうでもよくなってしまうという状態に陥ったことがありました。
投げやりとまでは言いませんが、半ば絶望した状態で、全てに無感動・無関心だったと思います。
そんな状態が数年続きました。
今にして思うのは、それは自我が絶望しているだけでした。
何も同一化したり、掴んだりするものがなくなったので絶望していたのでしょう。
ところで、こんな当たり前のことに、どうして気がつかなかったのでしょうか。
昔の自分が滑稽に思えて仕方がありません。
これがジョークというものでしょうか。


また、一度、自我によるトリックを見破ることができたら、もはやそれに影響されることはなくなりました。
今は、絶望感どころか、日に日に幸福感が増大していき、ただただそれに圧倒されるばかりです。


〇追記(2019/1/26)
何度か通読し、以降数ヶ月本棚にしまったままになっていました。
先日、机に座って、何の気なしに本棚を見ていると、本書のことが異常に気になりました。
パラパラページをめくっていると、ある一説がひときわ輝いて見えました。
以前は特に何とも思わず目を通していたはずの文章が、不思議なほど胸に響きました。
やはり、何度読んでも、読むたびに内なる神聖への自覚を促してくれる不思議な本だと思います。
自己探求の旅が完結するまでは、大事に持っておくべき本だと改めて思いました。


ちなみに、私の目に留まった一説はこれです。
「あなたはこの顕現した純粋な意識であり、宇宙やあなたが見ているこの生命のまさに魂であり、今はただ肉体という衣装を着ているだけだ」


〇追記 2019/6/3
「<私は在る>にとどまりなさい」とよくマハラジは言いますが、率直に言って、最初の頃「私は在る」の意味が分かりませんでした。
が、今なら分かる気がします。
私たちは「私も!私も!」「私が!私が!」と日常的に言っていますが、そのまさに「私」という想念/感覚のことです。
なんてことはない、その想念/感覚にとどまりなさいと言っているだけじゃないかとある時気がつきました。
なぜ、私はこんなことが何年も分からなかったのでしょうか。
きちんと「私は在る」にとどまることができているならば、徐々に不安感が減り、幸福感が増大するため、すぐに分かると思います。(「私は在る」も一つの想念に過ぎないので、最終的には意識の海に溶け去ります)
「私は在る」にとどまることで、自我による影響も激減するものと思います。
自我にハンドルを握らせることも少なくなると思います。
「私」という感覚にとどまることで、大半の雑念は「私」という足場を失い、ひとりでに崩壊します。
ただ、自我は狡猾であり、自身の生き残りをかけて、かなり巧妙な罠をしかけてくるので油断はできません。
罠にはまらないためには、今現在、自分の人生の主導権を自我が握っているのか真我が握っているのかを識別すればよいと私は思います。
その識別力は「私は在る」にとどまることによって供給されます。
自我による罠を全て見破れば、もはや自我の死は確実だと思います。



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翻訳者の髙木悠鼓(たかき ゆうこ)

1953年生まれ。大学卒業後、教育関係の仕事・出版業をへて、
現在は翻訳・作家・シンプル道コンサルティング業を営みながら、
「私とは本当に何かを見る」会などを主宰する。

翻訳本

「意識に先立って ― ニサルガダッタ・マハラジとの対話」ジーン・ダン (編集)

「ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの ―時間以前からあった永遠の真実―」
ラメッシ・バルセカール

『誰がかまうもんか?! 』(ラメッシ・バルセカール)
『意識は語る』(ラメッシ・バルセカール)

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