中高年応援チャンネル 57歳 地球旅行 日記

人間と呼ばれている生物を操縦して地球を旅行中。自分自身の為の備忘録。

私の愛読書「死は終わりではない」②エリック・メドフス・お勧めの天使関連の本

304,859 回視聴 2023/07/08

亡くなった息子が語った「死後の世界」とは?(「死は終わりではない」エリック・メドフス、エリーサメドフス著) - YouTube


私の愛読書「死は終わりではない」①エリック・メドフス - 中高年応援チャンネル(55歳 地球旅行中 YouTuber 日記)
 の続き↓




死は終わりではない (日本語) 単行本(ソフトカバー) – 2017/12/4
エリック・メドフス (著)
エリーサ・メドフス (著)
 峰岸計羽 (翻訳)
出版社 : きこ書房

★少し補足
母親は息子が拳銃で自死をして、失意に暮れていた時、息子の霊に誘導され無意識に、
ある女性霊能者を探し当て電話をした。その女性霊能者に息子の霊が乗り移ると息子が使っていた汚い言葉使いで話し掛けて来たので息子の霊(スピリット)だと確信できた。
母親は息子が語る死後の世界を本にして出版する決意をした。
霊媒師との出会いも、後から全て息子の霊の計画だったと知った。

「死は終わりではない」
ピストル自殺した20歳のアメリカ人青年の霊が霊媒師を通じて、死後の世界を解説。
この本を読むと死の恐怖が消え
逆に死後の世界が楽しみになり
残りの人生も楽しもうと超ポジティブな考えに変化する
エリック・メドフスは
2009年10月6日にピストル自殺した20歳のアメリカ人青年
彼の母親、エリーサ・メドフスは
30年以上にわたり内科医として勤務してきた医師で医学博士。5人の子どもの母親でもある。育児に関する3冊の著書があり、学校、子を持つ親のグループ、あるいは企業で講演も行ってきた。
そんな素晴らしい経歴があるのに息子を自殺させてしまい
彼女は苦悩した。そして霊媒師を利用し
霊界にいる息子に自殺理由を聞き出そうと彼女は思った
息子が語る自殺理由や死後の世界、生まれ変わりなどの話に
衝撃を受け、息子の話を本にして出版する決意をした。
★自殺する数時間前の心境からエリックは詳細に語り出す
ピストルで自殺し死んだ直後のエリックの仕事は
なんと霊のままで
姉や弟や親戚や両親たちに対して
彼らが抱えている死の哀しみを和らげるために
会いに行って慰めることだった。
もちろん霊になったので残された家族と会話はできないが
あれこれと相手の心にテレパシーで訴えるらしい。
すると少しづつ、その想いが相手にも伝わり
哀しみが癒されていくらしい。


霊になったエリックの話を聞いているだけで
物凄く、ポジティブになっていく
エリックは霊になって得た超能力に感動する。
残された家族の心の中を読み取れる能力や
相手の事を思うだけで
相手がいる場所に瞬間移動できる能力など。
人間でいた時は悩みだらけで絶望感に支配されてたけれど
霊になったら、色んな事が理性的に賢者のように
考えられるようになって霊でいることを楽しんでいる。


エリックはこの本の中で時間が存在しない事を語っていて、
今後、人間として生まれ変わる予定はあるのかの質問に対して、
時間は存在しない、肉体を持たないスピリットとして活動しながら、
並行して複数の様々な時代の人間としても同時進行で楽しんでいる最中だと説明している。
魂は前世、現世、来世という時間の流れのように進んでいるのではなくて、
意識、魂に時間は無く、輪のように永遠に循環しているので、
始まりも終わりも無いと言っている。魂に優劣は無いとも言っていて、
我々、魂は、すべて神らしい。
魂は完成する為に、3次元の分離した意識レベルが低い次元でしか学べない愛を学ぶ為に来ているらしい。
厳密に言うと私たち魂は皆、魂の一部分を様々な次元に同時に派遣して体験を積んでいて、魂の本体は常に集合意識とも言える至高の領域に存在しているらしい。 


魂が自由に移動する事に関する関連動画


(P.29~一部転載)
第一部 ぼくの死
第1章 人生最後の日
こんなことになるとは、想像もしてなかった。


 そして、引き金を引いた。
 パンッとはじける音が聞こえたのと、グイッと引っ張られるような感覚があったことしか覚えていない。痛みや衝撃はなかった。そして数秒間、無の状態になった。
 銃を撃った直後、マリア(家政婦)の悲鳴が聞こえた。書斎で掃除機をかけていたマリアの悲鳴は救急車のサイレンのように聞こえた。それはたぶん、ぼくがしたことと、それが人に与える影響を結びつけた最初の音だった。
 その声でぼくは我に返り、立ち上がってマリアのところに駆けつけたいと思った。でも、ぼくはドアの閉まった部屋で身動きできずにいた。マリアが廊下を走ってくる足音がする。そして、ぼくの部屋の前でほんの一瞬立ちどまった。ドアを開けて、ぼくを見たマリアは、もう一度悲鳴を上げた。窓ガラスが割れそうな声だ。
 ぼくは部屋の中に立っていた。銃で頭を撃ったはずなのに、どうして立っているんだろう?
「クソッ、しくじった。死にそこなったんだ!」


 混乱したまま見下ろすと、自分の体が見えた。そのときやっとわかったんだ。「おや、ぼくがいる。あれ、ぼくの体じゃないか」。
 正直に言おう、マジでちょっとうろたえていた、自分の体の中に戻ろうとした。でも、どんなにがんばっても戻れない。それでこう思った。
「そうか、もう戻れないんだ。どうにもならないんだ。自分で決めたことだからしかたないけど、クソッ、何てことをやらかしちまったんだ。取り消したい! いまならいのちの大切さがわかる。もし元に戻ったら、証明してみせる!」
 でも、心のどこかで、叶わないことだともわかっていた。もうやってしまったことなんだ、って、それでも、つぎつぎにわいてくる思いを止めることができなかった。
 パニック状態がしばらく続いて、自分で自分が嫌いになった。何よりも、みんなに自分の死体を見られるのかと思うとたまらなかった。
 もっとも、当時、こうした考えや感情を自分できちんと整理できていたわけじゃない。何といっても、ぼくはそこに座って死んでいたんだからね。でも、生きていたときと同じように、いろんなことを考えたり、感じたりしたのはたしかだ。
 つぎに、ぼくの部屋は何もかも洗い流されたようになった。まるで雨の中に置かれた塗り立ての絵のようだ。


~中略~ 


自分があらゆるものの組み合わせでできた織物の一部であるかのような…。それが何を意味するのか、そのときはわからなかったけど、たしかにそう感じたんだ。
 あたりを見回すと、トンネルの中に入ったように視野は狭く、全体に白いもやがかかっていた。そのときは、もう手に銃はもっていなかった。自分を撃ったあと、あの銃はどこへ行ってしまったんだろう? 火薬のにおいもしない。ヘンだ。部屋の中いるなら、においがしてもいいはずなのに。
 この視野の狭いレンズを通して、ぼくはまるで望遠鏡をのぞくように自分の死体を見た。それは自分だとわかるのに、なぜか感情的につながれない。ふつう誰かが傷ついて倒れているのを見たら、胃がキュッとなって、心臓がバクバク、アドレナリンがドバっと吹き出しそうだろ?駆け寄って助けたいと思うだろ? だけど、ぜんぜんそんな気にならなかったんだ。
 そこにあるのはぼくの体のはずなのに、別人のようだった。


 顔は青ざめ、鼻はゆがみ、指もやたらと長く見える。まるでぼくの安っぽいまがい物を見ているようだった。博物館のろう人形。あるいは操る人がいない操り人形。


 自分の死体には何の共感も覚えなかったけど、
ほんの少しまえの姿 【傷のない頭で机に向かっていた姿】に戻したいという欲求はあった。体の中にもぐり込んで、生き返らせたいと思ったわけじゃない。
 ただ、きれいにしてやりたかった。手を貸してやりたいと思った。
 目の前の光景が凄く奇妙だった。自分は映画の中の登場人物のはずなのに、むごたらしい流血のシーンを前にしても、どこかで
「はい、はい、そう来ましたか。ま、しょせん映画の中のことだから」なんて思っている。
 ぼくには目の前で起きていることが、現実の出来事とは思えなかった。まるで映画を鑑賞するみたいに、自分とは切り離された世界のことのように感じていたんだ。映画の中の俳優だったぼくが、いつのまにか観客の一人になっていたわけだ。
 銃を探して、拾っておこうと思った。銃を見つけて手を伸ばす。おや、新しい手になってる。ただし、光ってもいなければ、半透明でもない 
精霊(スピリット)とか幽霊ならそんな感じになるんじゃないかな。ぼくの新しい手も何となく光は放っていたけど、銀色のチラチラとした光だった。そして奇妙なことに、きちんとした形がありながら、同時に透きとおっている。たとえるなら、暗い水面に映る自分の影のようなものだ。実体はあるのにただの透きとおった影なんだ。ぼくの手もちょうどそんなふうだった。
 何かをつかもうとか、触ろうとすると、手はそれを通り抜けてしまった。ピリピリとした圧力は感じるのに、実際に触っている感覚がない。自分の死体に触ろうとしたけど、手でつかむことはできなかった。大事にしていたフェンダーのギターを鳴らそうとしても、指は弦をすり抜けてしまった。音が出せない。もう二度と音楽を奏でることはないのか。そう思ったら、すごく悲しかった。
 そのとき、階段を上がってくる母の足音がした。つまずきながら、一段飛ばしで上がってくる。母はこわごわ部屋に入ってきたりしなかった。まるで行く手をさえぎるものはすべてなぎ倒して進む砲弾のように、突入してきた。
 ぼくはというと、宙に舞い上がったかのように高いところから見下ろしていた。生きている人間のように床に立ってはいなかったんだ。そうやって空中に浮かびながら、穴があったら入りたいような気持ちに襲われた。まるで悪さをしているところを見つかった子どもみたいに。それなのに、感じていいはずの後悔は感じなかった。


 ただただ、いたたまれなかった。


 とんでもないやつだと思うかもしれないけど、母のもとへ駆けつけたいという欲求はわいてこなかった。母を見つめながら、ある種の冷静さに包まれていたんだ。それは、引き金を引く直前や、引いた直後に自分の体を見下ろしたときに覚えた感覚とはまた違う、このときの落ち着きは客観的な観察からくるもので、それが後悔の念からぼくを切り離していたんだ。 
 自分の体を抜け出したとき、感情はついてきたけど、肉体的な本能はついてこなかった。
 ショックを受けたからじゃない。肉体があるときは、ショックを受けると、本能的に生き延びたい、身を守りたいと感じて距離を置こうとする。でも、ぼくにはもう生き延びたり、身を守ったりする必要はなかった。
 残されたのは、この心理的な距離だけ。だからもう感情に振り回されることはない。ものごとはただ目の前で展開しているにすぎないし、ぼくはそれを見ながら、まだ何かを感じてはいるけれど、生きているときとは感じ方が違う。こうした心の距離感は、あの世へ安らかに渡っていくために必要だったのかもしれない。
 いま思えば、ずっと奇妙な夢の中にいたような気もする。たぶん衝撃的な体験から生まれる感覚なんだろうね。生身の人間でも、スピリットでも、夢のように感じることがあるんだな。
 そんな心理的距離感を感じながらも、生きていたときよりも意識ははっきりしていたし、感覚も鋭くなっていた。


中略


 ぼくの体にすがりついて泣いている母を見ながら、ぼくは、すべてに納得していた。奇妙なことに、この自殺直後の短いレベルでこれは真実だと感じていたんだ。家族はとてもつらい思いをしただろう。でも、起こったことは何ひとつ訂正する必要も、変更する必要もない。そう思ったら、ぼくは救われた。なぜそんなふうに納得したのか、そのときはまだわかっていなかった。それでも、これでいいんだと感じていた。
 


★補足★エリック君は、自分自身の葬式に参加し、その後、霊界で指導霊のような存在から
人生の目的などを教えて貰う。
人間として生まれる前に、生まれて早死にする事、
その後に霊界でスピリット・ガイドの仕事をしながら、地上でも
本を出版する事も決めていたらしい。


第一部 ぼくの死
第4章 クロスオーバー(P.85から一部転載)
 何もかもが、まばたきほどの間に生じたようだった。


 こうして家族へのさよなら行脚を終え、葬式も済んで、心に浮かぶ考えや感情の処理も完了したぼくは、ほかに行くあてもないし、とにかく家に帰ろうと思った。これまで場所を思い浮かべただけで瞬間的に移動できていたんだから、家を思い浮かべればいいと思った。
 でも何だか勝手が違う。そのとき予想外のことが起こった。
 自分が移動しているのはわかる。でもなんか変だ。そうか、足が地面についていないんだ。
 ふつう前進すれば、体に風を感じたり、景色が流れていくのに、それも感じない。車を運転したり、通りを歩いたりするときに目に映っていものが、ない。
 不安になった。というより、思いがけない展開に警戒心が芽生えた。
 自分はどこへ行くんだろう。何かに引っ張られてどこかへ向かっているんだろうか。たとえば、巨大な磁石とか、大きな釣りざおみたいな、宇宙の見えざる力に引っ張られてるとか?
 それから、まるでジェットコースターで急上昇と急降下を繰り返すときのような、ふわりとした感覚を味わった。


~中略~


そのうち周囲に白い光が見えてきた。そう、白い光だよ。
 でも、それは「クロスオーバー」のときに見えると言われるような白い光のトンネルではなかった。ちょうど何から何まで白い、大きな部屋を横切っていくような感覚だった。
 なぜかぼくは、この光になぐさめられた。不安は少しやわらいだけど、すっかりなくなったわけじゃない。においも音もしなくて、何も見えなかった。せめて、雲の上でハーブを弾いている天使くらいはいるかと思ったら、それもなし。あるのは、ただ静寂と白い世界だけ。


~中略~


 ほんとうは次元的なシフトと言うべきだった。エネルギー的にぼくは、地球を離れて、それとパラレルに存在する次元へ移ろうとしていたんだ。
 あとになって学んだのは、次元というものはすべて並行に存在しているということだった。ただし、すべてが押しつぶされ、一つになって渦巻いている。
 光の中の点は、人のような姿に変わっていった。なんだか大勢いるみたいだ。
 いや、ほんとうに人だろうか。もしここが天国なら、天使かもしれないし、地獄なら悪魔かもしれない。どちらにしてもヤバい。考えてもみてくれ、ぼくの記憶にあるのは、人間としての人生だけなんだ。次元移行だの変容(トランスフォーメーション)だのというのは、ホラー映画の中での出来事だった。
 わけのわからない物体がモンスターに変身する『ブロブ/宇宙からの不明物体』なんていう映画もあったけ。あれはマジで震え上がった。
 その「人らしき」存在たちが現れると、自分が注目の的になったような気がした。
 でもそれは、「ぼくを見てくれ、カッコいいだろう」的な、エゴ丸出しの気持ちじゃない。自分が目の当たりにしているのは、ホラー映画なんかじゃないと認識したとたん、ぼくは愛を感じ始めた。
 恐怖から愛への変化は、たとえば暗い夜道で、向こうからやってきた知らない人が、近づいてみると知人だとわかったようなものだ。誰だかわかったとたん霧が晴れて、「もう、何なんだよ。心臓が止まるかと思ったよ」ってなる。 
 そのときのぼくが感じていた愛は、ひざまずいて泣きたくなるような気持ちだった。 
 幸せのあまり流す涙。
 心が洗われるような涙。


ぼくって、こんなに価値のある存在だったんだ。


 あとになって、そのとき感じた愛は、ぼくの癒しのプロセスを開始するのに必要なものだったと気づいた。 



P.102から一部転載
第ニ部 移行 トランデション
第5章 人生の振り返り
 自分の人生の一部始終が、目の前で繰り広げられたんだ。


 テーブルに着席した六人のスピリットたちを見て、ぼくはこの旅がどんなものであれ、つぎの段階に入ったことを悟った。少しおびえていたけれど、心の準備はできていた。
 スピリットたちに「これから人生の振り返りを始める」と告げられて、とっさに「何だ、そりゃ?」って思ったけどね。だからって、スピリットたちが巻物を広げて「ようこそエリック、これからそのやり方を教えよう」なんてことにはならなかった。
 言葉での指示はなかったんだ。スピリットには声がない。伝えたいことを直接ぼくの頭の中へ送ってくるようだ。それにぼくの力になろうとしているのがわかった。
 スピリットたちによれば、ぼくはこれからさまざまな場面を見ることになるらしい。ただし、人生の振り返りを行うか行わないかは選択できない。そして、その振り返りのプロセスによって、ぼくは自分が何者で、どうすれば自分を許せるようになるかがわかるのだそうだ。


でもぼくは、「自分を許す方法がわかる」と言われるまで、自分が許しを求めていたことにさえ気づかなかったんだ。


 テーブルの上にはスクリーンがあって、ぼくはそれを見下ろす恰好になった。
 同時に、自分が周囲三六〇度にあるすべてを見ることもできた。すると今度は、テーブルが映画館に形を変えて、客席をぐるっと取り囲むスクリーンのようになった。
 ただし、映画館と違って、前方のスクリーンにくぎ付けになりながら、ポップコーンをほおばり、コークを飲む…的な展開にはならない。ぼくはしばらく部屋の様子をうかがっていると、思いも寄らないことが起こった。
 突然、自分が小さな赤ん坊だったときから死ぬまでの、ありとあらゆる場面(楽しい場面も、つらい場面も、醜悪な場面も)が四方八方からぼくに降りかかってきたんだ。
 最初は、誕生の場面、母親の胎内から絞り出されるような感覚がした。
 そのあと母の喜びと痛みを感じ、家族の興奮を感じた。 
 そこからの体験は、うんと控えめに言っても強烈なものだった。
 自分の人生の一部始終が目の前で繰り広げられたんだ。しかも自分の体験のすべてをもう一度体験するだけじゃない。人生に存在したすべての人がぼくの言葉や行動に何を感じたかを、目の当たりにしたんだ。
 その人たちの喜び、痛み、落胆、ありとあらゆる感情をぼくは味わった。
 ぼくがうそをついたとき、感情を表に出さなかったとき、助けを求められても助けなかったとき、ひきょうなまねをしたとき、与えすぎたとき、与えすぎなかったときに、相手がどう感じたがわかった。
 ぼくが何かいいことを言ったとき、いいことをしたとき、相手が何を感じたかを感じた。


 ぼくの下した判断に対して、相手がどう反応しようかと考え、心を決めていく姿に、ぼくはものすごく心を揺さぶられた。ぼくの行動に反応して相手が抱いた感情を感じるだけでなく、相手の視点そのものでその状況を見ることができた。
 まるで、ぼくがその人自身になったみたいだった。しかもすべてを一気に、ものすごく細かいところまで、たとえば、相手が人生で何回まばたきをしたか、何回食べ物を飲み込んだかとか。
 この振り返りをコントロールすることは、ぼくにはできなかった。
 何も変えられないし、早送りも巻き戻しもできない。だから、「いや、こんなのより楽しい場面があるんだ。さっさと巻き戻して、五歳のぼくの名場面をもう一度見ようぜ。そこからは早送りで、十四歳のぼくがヘマをやらかした場面は飛ばしてくれ」なんてことは考えなかった。
 つぎつぎと目の前に場面が繰り出されてくる。こういう能力は、生きている間ならお金を払ってでもほしいと思っただろう。そうすれば、おそらく違うやり方で人生のかじの取りができたはずだ。人は誰も、死んでいようが生きていようが、自分の選択の意味を理解したいと思うもんだ。だから、この振り返りは最高の体験だった。
 振り返ったことで、自分の選択の意味を知ったんだからね。いや、知ろうとしたんじゃない。自然にわかったんだ。
 この振り返りで一番印象的だったのは、人生初の自転車を買ってもらったときのことだ。しかも、それはモトクロス用のダートバイクだった。まだ九歳か十歳だったけど、父と母に信頼されていると感じた。


 どんな状況に遭遇しても、この子なら対処できるという絶大な信頼。
 それはぼくにとって重要な意味をもつ瞬間だった。自分をとても誇らしく思えたから。


 もう一つ、振り返りの中で幸せを感じたのは、初めて叔父になったときのことだ。姪のアーリーンを抱っこするのが、ぼくは不安でたまらなかった。落としたり、抱き方を間違ったりしたらどうしよう。
「このぼくをどうしてそこまで信頼するんだろう?」って不思議だった。
ぼくに言わせれば、ぼくは信頼できる人間じゃないからだ。腕の中のアーリーンを見て、なんて小さいんだろうと思った。それに比べて、自分の腕のなんと太いことか。アーリーンは
泣きもしなかった。ぼくに抱かれて、とても幸せそうだ。ぼくは初めて嬉しくて泣いた。
 ぼくは、ある友人に意地悪をしたときのことははっきり覚えている。
 そいつからは、ぼくは少し嫌がらせをされていた。ぼくをどこそこへ来いと呼び出しておいて、いざそこへ行ってみるといなかったり、「おまえは友だちだ」と言ったくせに、ぼくが困っていても助けてくれなかったり。それで、ぼくはそいつに思い知らせてやったんだ。
 暴力を加えたとか、悪口を言ったとか。侮辱したというわけじゃない。ちょっと意地の悪いことを言ってやっただけだ。でもほんとは、黙ってその場を離れるだけでよかったのに、頭に血が上って分別をなくしていたんだ。
 ぼくに怒りをぶつけられた友だちは態度を豹変させた。もしあのときぼくが違うやり方で対処していたら、ぼくらの仲はそんなふうにならなかっただろう。彼の態度だって違っていたかもしれない。その一件以来、彼は、また自分の言葉で友だちをなくしたらどうしよう、とおびえるようになった。不安がいまの彼を支配している。まさかそんなことになっているとはね。
 じつは、その友だちがぼくをいじめたのは、彼自身が虐待や暴力を受けていたからだったんだ。ぼくにしてみれば、相手を傷つけようとかじゃなくて、軽い仕返しのつもりだったんだけど、ぼくの言葉は彼につらい記憶をよみがえらせてしまった。
 自分の言動が相手にどんな影響を与えるかなんて、わからないものだ。人生の振り返りで、友だちの当時の屈辱感、恐れ、劣等感をじかに体験させられるというのは、ものすごく強烈だった。あのときの彼は、引け目を感じているのに顔に出さなかった。だから、ぼくは知るよしもなかった。この振り返りのおかげで、そんな彼のほんとうの気持ち、真の姿を、ぼくは知ることができた。
 その友だちとの思い出を振り返るうちに、ぼくは、どちらかいっぽうだけが悪いなんてことはないということも学んだ。責任は双方にある。たしかに、ぼくが友だちに放った言葉についてはぼくの責任だ。でも、それをどう思い、どう反応するかは、ぼくの責任じゃない。彼自身が負うべき責任なんだ。
 こうして人生を振り返っていると、自分はある種の役を与えられ、それを演じているみたいだなと思った。で、その人生を終えたとき、自分は「ぼくの人生」という劇の登場人物にすぎなかったことを知り、芝居の総評を読むことになるんだな。
 奇妙なもんだよね。でも、ぼくは「ねえ、ちょっと赤ペン貸してよ。このキャラに訂正を加えるから」なんてことは思わなかった。なぜなら、自分がどんな決断を下したとしても、それも劇のうちだとわかったからだ。
 人間だったころのぼくは、ぼくの役を演じてた。でも、スピリットのいまは、本当の自分に戻って、自分が演じた役柄を振り返っているってわけだ。
 振り返っているうちに、演じていた役柄の向こう側に、自分のほんとうの姿を垣間見る瞬間が何度もあって、ㇵッとした。つぎつぎと浮かんでくる疑問「なぜ、ぼくはあんな態度をとったんだろう」「なぜあいつに不愉快な思いをさせたんだろう」「なぜあんな決断を下したんだろう」「なぜあの人に親切にしたんだろう」のすべても、ぼくが、こうしてその全貌を学ぼうとしている大きな絵の一部なんだ。
 この学びは、建設的なものから破壊的なものまで、すべてぼく自身の意図と関連してる。


 たとえば、ある日ぼくがアリの一群を踏みつけてやるぞ、と思ったとしよう。
 それはぼくにとって、アリにも感情があることを学ぶレッスンだったのかもしれない。


 それに、アリを傷つければ自分自身も傷つくことになる。動物でも植物でも、生きとし生けるものは一つの共同体なんだ。だから、アリを殺すという行為は、そうしたすべてのもののつながりを知る機会になる。 


 他者を傷つければ、自分を傷つけることになるんだ。


 つまり作用(アクション)にはかならず反作用(リアクション)があること。振り返りの間に得たこうしたひらめきは、ものすごく奥の深いものだった。
 間違いなくぼくに必要なものだった。
 そして、この振り返りで、自分が下しえたすべての決断と、そこから起こりえたすべての結果を見ることもできた。想像がつくと思うけど、その可能性は無限だったんだ。
 たとえば、姉のミッシェルがボーイフレンドとけんか別れしたときぼんくが慰めなかったら、まったく違う展開になっていてもおかしくない。  
 ぼくが思いやりのない弟だったら、ミッシェルはひどく落ち込んでいたかもしれないし、ぼくらが仲のいい姉弟じゃなかったら、ミッシェルは立ち直れなかったかもしれない。
 それどころか、姪のアーリーンだって生まれてなかったかもしれないんだ。
 ある一瞬は別の一瞬に影響を与えている。人生とは、延々と並ぶドミノのようなものだ。
どこでどのドミノが倒れるかは、ぼくたちの決断で決まる。
 この振り返りの間に、何度かテーブルに突っ伏して泣いたこともあった。
 のけぞって笑ったこともあった。でも、六人のスピリットに自分が裁かれたと感じたことや、自分が何か間違ったことをしたと感じたことはいっさいなかった。


 説明するのは難しいんだけど、ぼくはこのとき初めて、善悪というものは存在しないとわかったんだ。
 自分が裁かれていると感じなかったのも、ここには裁きとか恥とかいった概念がないからだ。ぼくは、一瞬一瞬を、それぞれの体験を、ありのままに見た。どれも貴重な教訓であって、それ以上でもそれ以下でもない。だから、自分がしたことを修正したいとも取り消したいとも思わなかった。その必要も感じなかった。
 人はみな、何らかの倫理観、価値観、指針のようなものに従って生きている。
 自分で決めたものもあれば、社会や宗教が決めたものもあるだろう。その大部分はまともなものだ。人間同士が社会で生きていくためには、ふつう、ある種の倫理規範が必要なんだ。
 その規範には、「これこれこういうときは、こういう反応をすべし」的なこともたいてい含まれている。
 こういうとき人は喜ぶし、こういうときは怖がるべし、恥じるべし、怒るべし…。
 だからって、こっちの世界に来ると、無法状態になるわけじゃないよ。たががはずれて無茶をするとか、気分のおもむくままにアホなことをするとか。いや、ぼくらスピリットたちは、正しいとか間違っているとか、あるいは
善だとか悪だとかいう概念を超越しているんだ。
 つまりぼくらは、そういう定義(そういう定義の必要性)を超越したレベルの存在だってことだ。
 振り返りの最後に、自分の死の場面がやってきた。
 自殺したからといって裁かれることはないとわかったけど、内心、ぼくはビクついていた。最愛の人たちに大きな苦痛を与えてしまったからだ。それでも、いまの自分は裁きのない次元にいるんだって感じると、気分が楽になってきた。


その瞬間から、ぼくは自分を許し始めた。


 そして、自分を許すことは、やがてぼくにとって最大の癒しとなっていった。
 人生の振り返りは、どれぐらい続いたんだろう。二秒? それとも二十四時間?
 ここには直線的な時間は存在しないからよくわからない。それでも、すべてが一瞬のうちに起こったような気がする。ほら、映像がパッパッとすばやく差し替えられる映画があるよね。 
 何て言ったっけ? モンタージュ? ちょうどそんな感じだった。
 だけど、振り返りの内容は時系列に進んだ。ただし、フレームレート(※訳注:動画の1秒当たりのコマ数)はかなり高かったから、すべてがあっという間に過ぎたように感じたんだ。
 ちょうど最初から最後まで一瞬でダウンロードされたみたいに。
 振り返りが終わったあとも、ぼくはまだ白い部屋にいた。すると、六人のスピリットが、人生のすべての場面をぼくに見せた目的を教えてくれた。
 人間としての体験から何かを得ることが目的だったんだって。
 さらに、ぼくにその自覚はあったかどうかは別として、じつは、ぼくの人生は、出会ったほかのスピリットたちとともに、自分ですべてまえもって計画したことだった。とも教えてた。ぼくの人生の計画とは、対比(コントラスト)をつくり出すことだった。
 たとえば、許しを完全に学ぶには、自分自身や誰かを裏切らなくちゃならなかった。
 人間関係の大切さを学ぶためには、ろくでもない人間関係を経験するか、人間関係の少ない人生を歩む必要があった。重要な教訓を学ぶためとはいえ、ずいぶん荒っぽいやり方だよね。でもまあ、ぼくにふさわしいやり方だったんだろう。うん、いまならよくわかる。
 人生の振り返りは、じつに盛りだくさんなものだ。
 ぼくにとって重要だったのは、善悪というものを深く理解できたことだ。さっきも言ったように、こっちでもはや「善か悪か」というルールに縛られることはないし、地上のように自己批判も存在しない。


 自己批判が存在しないからこそ、ぼくは自分を許すことができた。


 それに、間違いなく、これはぼくにとって、振り返り体験の中でもっとも印象深い出来事だった。
 


(P.114から一部転載)
第二部 移行 トランジション
第6章 暗闇
 暗闇を体験し、
 その正体を知る必要がぼくにはあった。
  
~中略~


ぼくにとって、この癒しのステップはそう長くはかからなかった。自殺したわりに、ぼくのエネルギーフィールドはあまりダメージを受けていなかったからだ。
 こんな話をしても、たいていの人はついてこれないだろうね。それはわかるよ。
 ぼくみたいに、何が何でも逃げ出したくなるほど、人生をつらいものだと感じる必要なんて誰にもない。でも、人生って、ときにはそうなってしまうことがあるんだよ。
 このときの暗闇をできるだけわかりやすく表現するとしたら、「けっして裁かれることのない、無限の許しの空間」としか言いようがない。繰り返しになるけど、大切なことなので言わせてほしい。振り返りの中で最大の収穫はこれだったんだ。「なるほど!」と思った。
 つまり、善悪とは人間がつくり出したものであって、


ほんとうに重要なのは、自分自身と他者を許すこと。


 詰まるところ、思いやりと愛なんだ。
 


 


P.204から一部転載
第三部 死後の世界
第20章 天使
ものすごい奇跡が起きたとき、人間は
「まるで天使が舞い降りて、見守ってくれてるみたい!」って言うんだ。


こっちの世界では、一般的な天使から、守護天使や大天使にいたるまで、
あらゆる天使に出会った。ぼくと同じスピリットガイドや、それ以外のスピリットにもね。
基本的にぼくはスピリットで、ガイドはぼくの仕事だ。
ガイドはみなスピリットだけど、スピリットがみなガイドというわけじゃない。
そして天使は、ぼくやぼくの友人たちとは違うレベルにいる、種類の違うスピリットだ。
なるべくわかってもらえるように説明してみよう。
 天使についてまず知って欲しいのは、翼がないってことだ。
それに頭上に輝く光の輪もない。
 人間が事実とは違う天使のイメージをもつようになったのは、スピリットと同じように、天使がこう認識してほしいというものに、自分の姿とエネルギーを変容させるからなんだ。
 ぼくが思うに、人間に取り乱されるのが嫌なんだろうね。
「うわ、目の前に浮かんでいるこの光の玉みたいなのはいったい何なんだ?」ってさ。
だから、大きな人間のような姿に翼をもたせて、昔から人前に現れてきたんだろう。
なじみのある姿で現れるからこそ、人間は「ああ。ぼくの天使だ。天使は人間に似ているけど、光を発している。そばにいると心地良く感じる。天使は信頼できる」ってなるわけだ。
 人間が天使には翼があると信じているもう一つの理由は、天使のエネルギーが、人間のものとは違った動きをするせいだ。


天使のエネルギーは、大きな鷲の翼のように弧を描いて動く。すると人間は、縦長のアーチ型の翼が前後に動いているようなイメージを抱くんだ。
 天使のエネルギーは、ときには、翼で人間を抱きしめるような動きもする。
 きみも見たことがないかな。天使の翼に抱かれた人間のイラスト。それから天使は大きな鳥が羽の大きさを見せつけるみたいに、そのエネルギーを目いっぱい広げて、人間をすっぽり包み込んでしまうことがある。人間を守るために、よくそういう動きをするんだよ。
 天使のエネルギーは強力だ。しかも実用的なんだ。
 ほら、小麦を脱穀する大きな機械があるよね。脱穀機は、ボーイスカウトのポケットナイフで小麦を一本ずつ切るより、作業をはるかに楽にしてくれる。
 天使は、もてるエネルギーをふんだんに使って、困っている人間の作業をはかどらせる。
 だから、そういうものすごい奇跡が起きたとき、人間は「まるで天使が舞い降りて、見守ってくれてるみたい!」って言うんだ。天使は仕事が速い。
 いっぽう、大天使はもう生き物には生まれ変わらない。その必要がないんだ。
 彼らは根源(ソース)ーー神と呼んでも良いーーからの直接切り取られた純粋なエネルギーであり、神なる無限のエネルギー集合体のごく近くにいる。だからものすごくパワフルなんだ。
 大天使になると、たくさんの責任と仕事を負うことになる。
 なかでも主要な役割は、バランスを保つことだ。その役割を果たすために、大天使たちには「介入の権限」が与えられている。そして人間が大天使の助けを求めているかどうかに関係なく、大天使は人間の自由意思に反応するような行動も起こす。
 実際のところ、バランスという言葉は適切ではないけど、ほかにいい言葉を思いつかないんだ。大天使は、戦争とか、地球の一大事とか、気候変動とかがあると、急いで舞い降りてきて、よい方向へ向かうような変化をもたらす。
 ときには、破壊的と思えることや間違っていると思えることでも、世界がそれを体験すべきなら、大天使は介入して、その状況をつくり出すんだ。
 そう、世界には残酷行為が存在するけど、ものすごく残酷で苦痛を伴うことでも、大天使はそれを使って、人類に対比(コントラスト)を理解させる。それを使って、世界をよりよい場所にする。言い変えれば、大天使は、どうすれば人類に最高のバランスをつくり出せるかを考えたうえで、調和とカオスをもたらすんだ。
 いっぽう、守護天使は教え、守り、癒しを与えるスピリットだ。
 そんなことができるのは、彼らのエネルギーが凝縮されていて、高い周波数で振動しているからだ。たいていの場合、仕事、健康、家族、金銭、人間関係などに関して、助けを必要としている特定の一人の人間を担当する。
 でもときには小さなグループを担当することもある。それから、いのちを救う為に介入することもできる。そういうとき守護天使は、その人のところへ行って「私はあなたをサポートしています。あなたはいま、一人では解決できない問題を抱えているので、私が手を貸しましょう」とか言うんだ。
 彼らに比べると、ぼくのようなスピリットガイドは、人間の横に立って助言をささやくことしかできない。スピリットガイドはさまざまなアドバイスは与えるけれど、それ以上介入したり、本人に代わって面倒なことを片づけたりはしないんだ。
 一般的な天使の役割は、人間を見守り、何かあれば助けに駆けつけることだけど、彼らは守護天使がするようなことまではしない。
 大天使や守護天使とは異なって、一般的な天使じゃ、呼び出されない限り助けに行けない。
 呼ばれる必要、歓迎される必要があるんだ。だからきみには天使を自宅に迎え入れてほしい。
 天使の存在を信じて身をゆだねてほしい。そうすれば天使はきみを助けられる。
 一般的な天使は普通のスピリットよりパワーが強い。なぜなら普通のスピリットよりも根(ソース)の近くにいるからだ。大天使や守護天使のパワーには及ばないけどね。
 まとめよう。スピリットガイドの役割は教育すること。つまり先生役。助言はできるけど、人間の人生を変えることはできない。
 それに対して、天使は求められれば介入が可能だ。守護天使は求めのあるなしに関係なく、介入できる。そして大天使は、かならずではないにしろ基本的に、人類に必要なバランスをつくり出すという、スケールの大きな仕事を手がける。
 天使もスピリットも、おたがいに指導し合い、助け合っている。たとえば、クロスオーバーしたてのぼくのところへ天使の一団がやってきて、アドバイスしてくれたときがそうだ。
 スピリットガイドになることはぼくの運命であり、それが天職だってことを教えてくれて、ものすごくありがたかったね。
 時間をかければ、自分でも気がついたかもしれない。でも彼らが助けてくれたおかげで、とても楽に乗り越えられた。それから、セリアとその仲間たちがいろいろ説明してくれたこともあった。セリアというのは、そのとき会話をリードしていた男性の天使だよ。あのときもほんとうに助かった。
 スピリットたちはみな、言葉ではなく、感情という共通語でコミュニケーションをとるので、ぼくは慣れるのに少し時間がかかった。感情はエネルギーの一種だし、ぼくたち自身もエネルギーだから。たしかに道理にかなっているんだけどね。
 スピリットの考えや感情はすべて、太陽系の惑星みたいに本人の周りを回っている。そして、ほかのスピリットが近づいてくると、互いに相手の情報をすべて受け取る。
 通訳は必要ない。情報はエネルギーの中に、いわば暗号化されているんだ。
 これも道理にかなっている。なぜなら、感情と同様に、情報もエネルギーだから。
 天使やガイドやスピリットたちは、人間ともこの方法でコミュニケーションをとっている。
 きみも自分のエネルギーに心を開いてみるといい。
 きみがいったん心を開けば、ぼくたちが二度と閉じさせないよ。


上記の文章の前編
私の愛読書「死は終わりではない」①エリック・メドフス - 中高年応援チャンネル(55歳 地球旅行中 YouTuber 日記)


アマゾンのレビューも参考になる
Amazon.co.jp: 死は終わりではない eBook : エリック・メドフス, エリーサ・メドフス, 峰岸計羽: 本


自殺した人からのメッセージ「死は終わりではない」 | アメリカ在住、鍼灸師acromion
 
死は終わりではない/エリック・メドフス著〜青年エリック君の死後の世界からのメッセージ – そらの風の吹くままに


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1992年、3歳の時のエリック君

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