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Yahoo!知恵袋「太宰治の担当編集者が梶原一騎の父親で…」


ID非公開さん
2021/8/24 1:23
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Q
太宰治の担当編集者が梶原一騎の父親で、心が折れて自殺・心中を何度もはかったんでしょうか?
梶原一騎の父親 高森龍夫は、
息子の事も
なかなか認めてくれなかった厳しい人だったそうです。


太宰治にも厳しかったのですか?


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A
高森龍夫 - Wikipedia を読む限り、太宰治の担当だった期間は短い。
高森が他の出版社に移り、その後の2人の関係をネットで調べた。
太宰治は複数の出版社から本を出版して、複数の編集者がいたので、その中には厳しい人もいたと想像する。


この漫画では太宰治と三島由紀夫を引き合わせた人物が高森龍夫になっているが
下記の記事などでは編集者の野原一夫になっている。

三島が、太宰だけでなく、取り巻きの、無批判な、たるんだ雰囲気にも反感をもったのが分かります。太宰はじめ皆は、たちまち酔っぱらったのに、三島だけは当時酒が飲めなかったようです。三島は太宰に森 鴎外の文学について尋ねますが、その場にそぐわない生硬な問いと思ったのでしょうか、太宰はまともに答えず、鴎外の軍服姿をからかったようです。かっときたのでしょうか、三島が太宰に言葉を投げつけるのはその後のようです。


・・・しかし恥かしいことに、それを私は、かなり不得要領ふとくようりょうな、ニヤニヤしながらの口調で、言ったように思う。即すなわち、私は自分のすぐ目の前にいる実物の太宰氏へこう言った。
「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」
 その瞬間、氏はふっと私の顔を見つめ、軽く身を引き、虚をつかれたような表情をした。しかしたちまち体を崩すと、半ば亀井氏のほうへ向いて、誰へ言うともなく、
「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」・・・(以上、三島由紀夫『私の遍歴時代』(Amazon→)より)


上の文章を書いたときの三島は、当時の太宰くらいの38歳になっていましたが、やはり、見ず知らずの青年に「あなたの文学はきらいです」と言われることがあると書いています。そんな時でも「こうして来てるんだから、好きなんだ」とは絶対に言わないこと、それが太宰の文学と自分の文学との違いであると。


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誰しもが様ざな形でコンプレックスを持っていると思います。三島や太宰の特異性は、それ(「自身のコンプレックス)を徹底的に認める勇敢さであり、自己解剖のメスを容赦なく突き立てうる切迫した感情でしょうか。それは両者に共通していると思います。「自身のコンプレックス」を見ようとしないで、それを他者に投影(または転嫁)して、他者を、からかってみたり蔑んでみたり否定したり誹謗したりする人間に比べたら数百倍誠実で、愛すべき存在とも言えます(「コンプレックスを他者に投影する人」を批判する(時にはそれが誹謗であっても)のは、また別のこと。彼ら(「コンプレックスを他者に投影する人」たち)はどうせ「どっちもどっち」論を振りかざすだろうから、念のため)。


だだし、太宰と三島の「自身のコンプレックス」との向き合い方は対極だったと思います。太宰はどこか甘く周りに共感を求め、三島はあくまで個として向き合いそれを克服しようとした。


2年後の昭和23年、太宰(38歳)はコンプレックスを吐き出すようにして『人間失格』を書き、6月13日、山崎富栄と玉川上水に入水。


三島(23歳)は、同年(昭和23年)8月28日、河出書房の坂本 亀一かずき (26歳。坂本龍一さんの父親)から長篇書き下ろしの打診を受け、快諾。9月2日、大蔵省を辞め、執筆に専念。「自身のコンプレックス」を書き切って文壇を驚愕させることとなる『仮面の告白』を生み出します。この作品は、2ヶ月前に自死した16歳年長の先輩に対する一種の“挑戦状”だったかもしれません。




朝日新聞社の担当編集者である末常卓郎の証言(「グッド・バイのこと」(「朝日評論」昭23・7))によれば、末常が太宰に「朝日新聞」連載の依頼をしたのは昭和23年の3月初めのことで、美知子夫人「後記」(『太宰治全集15(近代文庫)』昭27・8、創芸社)によれば、起稿は5月15日である。山内祥史は「解題」(『全集第九巻』90・10)において、「『変心二』までの七枚半は五月十八日に、『怪力三』までの三十五枚半は五月二十七日に、『コールド・ウオー二』までの四十六枚は六月四日頃に脱稿した」としている。
 作者の死によって中絶し、「朝日新聞」に発表されたのは、結局、昭和23年6月21日(作者の告別式当日)付東京版の「変身(一)」(連載第一回目分)と大阪版の「変身(一)(二)」のみで、没後、「朝日評論」昭和23年7月号に、残りの「コールド・ウオー(二)」までが掲載された。


★誤情報その2(笑)
太宰と三島の対面に出くわしたのは彼ではなく、坂本龍一の父・坂本一亀だった




興味深い質問だったのでアクセスしてみると、回答が1件も無かった。
私自身も興味があったので、ネットで調べて回答してあげようと思った(2021/8/26,17:07)



本名は津島 修治:1909年(明治42年)6月19日~1948年(昭和23年)6月13日享年38歳
★₌太宰治の担当編集者である高森龍夫(1900~1958享年57歳)の驚きの経歴と事実!

たかもり たつお、1900年(明治33年)9月14日 - 1958年(昭和33年)5月12日57歳没)
日本の編集者・挿絵画家。
熊本県立中学済々黌(現・熊本県立済々黌高等学校)で英語の教鞭を執っていた父・高森貞太郎(1866年 - 1946年)と、熊本藩主細川家に仕えた林氏の長女・寿(? - 1963年)の間の7人兄弟(6男1女)の長男として兵庫県に生まれる。


青山学院卒業後、山梨県都留郡の都留中学校の教員を経て、平凡社や中央公論社で校正の仕事などに従事し、★太宰治の担当編集者となる。その後、改造社に入社し『俳句研究』の編集長などを務めた。戦後、青山虎之介が創業した新生社に入社、同社発行の雑誌『花』、『新生』の編集長を歴任し、★谷崎潤一郎、★吉川英治などの担当をした。




漫画原作者の梶原一騎(本名・高森朝樹)は長男、
同じく漫画原作者の真樹日佐夫 - Wikipedia(まき ひさお 本名・高森真土)は次男。
三男 高森日佐志(ひさし)
https://fr-fr.facebook.com/kajiwara.ikki.walker/posts/586069178228946/
梶原一騎弟、高森日佐志氏の著書に父親が二人の息子(真土氏(真樹日佐夫)と自分)を銭湯に連れて行った話が出ていた。蒲田に最初に越してきた時の家は銭湯が近かったが引っ越して遠くなると冬場に億劫だったという話だ。
この話の中で梶原一騎はすでに誠明学園におり同居していなかったのだが、蒲田に引っ越してきた頃から銭湯に行く日常だっただろうと思うと彼も同じように父に連れられて行く事があっただろう。


昭和4年に創業された『改正湯』は年代といい場所といい推測の第一候補に上がる銭湯。現在は鉄筋造りで内部も近代的になっているが場所は変わらないはず。
先日紹介した『六郷温泉』
https://www.facebook.com/kajiwara.ikki.walker/posts/548424221993442
と同じく黒湯の温泉で、濃いコーヒーほどの透明度で沈めた身体が全く見えなくなる。お約束のモザイクタイルの下にはなんと水槽が埋め込まれていて金魚やチョウザメが泳ぐ姿を眺めながらの風流な浴室だった。『六郷温泉』はこの1月に廃業されたがこちらはまだまだ元気な銭湯だ。
幼少の梶原一騎もこの地下から湧く湯に浸かっていたのかと思いながら湯船で身体を伸ばしてきた。


※この著書を読んだところ、梶原一騎は以前紹介した「蒲田中学」へ進学をする前の段階で児童相談所を経て誠明学園に送致されているように思われる。中学生時代は通常の学校へ通っていないのかもしれない。


梶原 一騎(かじわら いっき、1936年(昭和11年)9月4日~1987年(昭和62年)1月21日50歳没
日本の漫画原作者・小説家・映画プロデューサー。本名:高森 朝樹(たかもり あさき)
1979年から81年にかけて台湾の有名タレント白冰冰(パイ・ピンピン)と結婚。白冰冰との間に娘白暁燕 - Wikipedia(パイ・シャオイェン 1980年6月23日~1997年4月19日・享年16歳)
著名な作品として★=TVアニメの再放送などで私も見ていた作品
『巨人の星』1968年3月30日~1971年9月18日★再放送で1回見たけど殆ど記憶が無し


『あしたのジョー』画:ちばてつや1970年4月1日~1971年9月29日全79話★再放送で3回見た

『タイガーマスク』1969年10月2日~1971年9月30日全105話★再放送が多く4,5回見た


『愛と誠』
★漫画と映画(1974)を見て早乙女愛のイメージだけ残っている(笑)大賀誠=西城秀樹
早乙女愛 - Wikipedia (さおとめ あい1958/12/29- 2010/7/20.51歳没)本名:瀬戸口さとみ
出生地 鹿児島県・死没地 アメリカ・ワシントン州シアトル
1997年(39歳)に男子を出産(現在24歳)
2002年(44歳)アメリカ移住。
2008年(50歳)離婚し息子と2人で暮らす
女優(活動期間 1974年 - 2000年)
【早乙女愛!】この時代最高ガール!早乙女愛!!! - YouTube


『空手バカ一代』画:つのだじろう★1973年10月3日から1974年9月25日リアルタイムで見た


「柔道一直線」1969年6月22日から1971年4月4日まで
★再放送でTVドラマを少し見た。近藤正臣がピアノの鍵盤の上に跳びあがって、足で「ねこふんじゃった」を演奏した場面は有名


『侍ジャイアンツ』1973年10月7日1974年9月29日全48回★TVでリアルタイムで見ていた。

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