中高年応援チャンネル 57歳 地球旅行 日記

人間と呼ばれている生物を操縦して地球を旅行中。自分自身の為の備忘録。

⑯第92章 ニサルガダッタ・マハラジとの対話

「アイ・アム・ザット 私は在る ニサルガダッタ・マハラジとの対話」


第92章 「私は身体だ」という観念を超えていきなさい 494p~498p


質問者
私たちはまるで動物のように、果てしなく無益な追求のために走りまわっているようです。いったい出口があるのでしょうか?


マハラジ
多くの道があなたに差しだされてきた。それらはあなたをひと回りさせ、出発点に連れ戻すのだ。まずあなたの問題が、目覚めの状態にしか存在しないことを認識しなさい。それがいかに苦痛に満ちたものであっても、眠りについたとき、あなたはすべてを忘れることができるということを認識しなさい。目覚めているとき、あなたは認識している。眠っているとき、あなたはただ生きているだけだ。意識と生命。その両方をあなたは神と呼ぶかもしれない。だがあなたはその両方を超えているのだ。神を超え、存在を超えている。あなた自身がすべてであり、すべてを超えていると知ることを妨げているのは、記憶に基づいたマインドなのだ。あなたがマインドを信頼するかぎり、それはあなたを支配しつづけるだろ。それと闘ってはいけない。ただ無視しなさい。注目を奪われて、それは速度を落とし、その働きの機構を露わにする。ひとたびその本性と目的を知れば、マインドが想像上の問題をつくり出すことをあなたは許さないだろう。


質問者
すべての問題が想像上のものでないことは確かです。そこには現実の問題もあります。


マハラジ
マインドがつくり出さなかった問題などというものがありうるだろうか? 生と死は問題をつくらない。苦痛と快楽は来ては去っていく。体験されたことは忘れられる。達成と逃避の問題をつくり出すのは、好きと嫌いに色づけされた記憶と期待だ。真理と愛が人の真の本性であり、マインドとハートはその表現の手段なのだ。


質問者
どのようにして何を欲しているのか知らないマインドを制御すればよいのでしょうか?


マハラジ
それは暗闇のなかで作用することはできない。それが正しく機能するには、気づきの純粋な光が必要なのだ。制御しようとする努力はすべて、マインドを記憶の命令の支配下に置くことになる。記憶は良き召使だが、悪い主人だ。それは発見を巧妙に妨害するのだ。実在のなかに努力の場はない。主要な問題と、そのほかすべての問題の原因は、身体との自己同一化による利己主義にあるのだ。努力によって利己主義を取り除くことはできない。ただ、原因と結果への明晰な洞察によってのみなされるのだ。努力は互いに相容れない欲望の間に起こる葛藤の兆候だ。それらはあるがままに見られなければならない。そのときにだけ、それらは消え去るのだ。


質問者
そして、何が残るのでしょうか?


マハラジ
変化することのできないもの、それが残る。偉大な平和、深い沈黙、秘められた実在の美が残るのだ。それは言葉によって伝えられない、と同時に、それはあなた自身によって体験されることを待っているのだ。


質問者
人は真我実現にふさわしく、適するようにならなければいけないのでしょうか? 私たちの本性は、その内奥に動物性を潜めているのです。それが克服されるまでは、実在が現れることをどうして期待できるでしょうか?


マハラジ
動物性のことは放っておきなさい。それをそのままにしておくがいい。ただあなたが何なのかを覚えておきなさい。観照者としてのあなたなしには神も動物もありえないということを、日々のあらゆる出来事をきっかけにして思い起こしなさい。あなたは存在するすべての本質と実体の両方なのだと理解しなさい。そしてあなたの理解のなかに確固としてとどまりなさい。


質問者
理解で充分なのでしょうか? もっと明確な証拠が必要ではないのでしょうか?


マハラジ
証拠の妥当性について決定するのはあなたの理解なのだ。だが、あなた自身の存在以上に、どのような確実な証拠が必要だと言うのかね? あなたがどこへ行こうと、あなたはあなた自身を見いだすのだ。あなたがどれほど遠くにたどり着いたとしても、あなたはそこにいるのだ。


質問者
明らかに、私は偏在するものでも、永遠なるものでもありません。私はここにいるだけです。


マハラジ
充分だ。「ここ」はいたるところにあり、「今」はつねにあるのだ。「私は身体だ」という観念を超えていきなさい。そうすれば、あなたは時間と空間があなたのなかにあり、あなたが時間と空間のなかに在るのではないことを見いだすだろう。ひとたびあなたがこれを理解すれば、真我の実現のための主要な障害は取り除かれるのだ。


質問者
理解を超えた真我の実現とは何でしょうか?


マハラジ
深い密林にたくさんのトラがいる。そして、あなたは丈夫な鉄の檻のなかにいると想像してみなさい。檻によって無事に守られていることを知っているため、あなたはトラたちを恐れなく見ている。つぎに、檻のなかにトラたちがいて、あなたはジャングルのなかをうろつきまわっている。最後に、檻は消え、あなたはトラに乗っているのだ!
★私の補足★
このマハラジの虎の比喩はインドの賢者たちが昔から使っている比喩です。
禅の十牛図では、比喩として牛に置き換えている。この場合、牛や虎=本当の心、真我。
人は皆、根源的な問い【私という不可解な存在は、いったい何なのか?】の疑問に対し納得できる答えを探す心の旅に出る。
そして皆が無数の転生を経て最終的には、
自分自身が説明不可能な永遠の意識だと悟り賢者となる。
至高の境地に到達し、宇宙や虚空を永遠に旅する自由な意識であることを堪能する。
禅の十牛図 - L.A.S.lab.flv - YouTube 


質問者
私は最近、ボンベイ(インドの現ムンバイ)で行われた瞑想セッションのひとつに参加しました。そこで私は参加者が自暴自棄になり、精神錯乱しているのを目にしたのです。なぜ人々はそのようなことをしに行くのでしょうか?


マハラジ
それらはみな、感覚的刺激を探求する人々を満足させるために落ち着きのないマインドが発案したものだ。それらのいくつかは、抑圧された願望や記憶を吐きだすことで無意識の助けとなる。そしてその程度の解放を与えるのだ。しかし、最終的には、彼は何も変わらないままか、あるいはさらに悪くなることさえあるのだ。


質問者
最近、私はあるヨーギ(ヨガ行者)の瞑想体験について書かれた本を読みました。それは幻想や幻聴、色彩や音楽であふれ、たいへん人目を引く内容でした。もっとも華麗な娯楽です!
最後には、それらはすべて消え去り、ただ恐れのない感覚だけが残ったのです。無理もありません。それらすべての体験を無傷で通り抜けてきた人には、何も恐れるものなどないのです! それでも、そのような本が私にとっていったい何の役に立つというのでしょうか?


マハラジ
おそらく、何の役にも立たないだろう、それはあなたの興味を引かなかったのだから。ほかの人は感動させられたかもしれない。人は異なるのだ。だが、誰もが自己の存在という事実に直面させられる。「私は在る」は究極の事実だ。「私は誰か?」はすべての人が答えを見いださなければならない究極の質問なのだ。


質問者
同じ答えでしょうか?


マハラジ
本質においては同じだ。表現は多様だ。
 それぞれの探求者は自分に合う方法を受け入れ、あるいは発明し、誠実さと努力とともにそれを自分に適用する。彼は彼の気性や期待に従って結果を得、それを言葉の鋳型に鋳込(いこ)め、システムを築きあげ、伝統を設立し、他者を彼のヨーガの学校に入会させるのだ。そのような学校は、無価値でもなければ必要不可欠でもない。より以上の進歩を可能にするために、進歩へのすべての欲望が放棄される地点まで進歩することができる。そうなれば、すべての学校は放棄され、すべての努力は終わり、孤独と暗闇のなかで無知と恐れを永遠に終焉させる最後の一歩が踏まれるのだ。
 真の師は弟子を既成の観念、感情、行為に押しこめようとはしない。その反対に、師はすべての観念や組み込まれた行動様式から自由になる必要性を忍耐強く示すのだ。注意を怠らず、誠実であり、どこであれ人生が彼を連れていくままにしたがい、楽しみも苦しみもせず、ただ理解し、学んでいくように。
 正しい師のもとでは、弟子は記憶し服従することではなく、学ぶことを学んでいく。サットサン、すなわち聖者との交際は鋳型にはめるのではなく、解放するのだ。あなたを依存させるすべてに気をつけなさい。いわゆる「師への明け渡し」はほとんどの場合、悲劇でなければ、良くても失望に終わる。幸運にも、誠実な探求者は体験からより賢明になって、巻き込まれる前に自分を危険から救うのだ。


質問者
明け渡しには確かに価値はあります。


マハラジ
明け渡しとは利己的関心事を明け渡すことだ。それはできるはずがない。あなたがあなたの真の本性を実現するとき、それは起こるのだ。言葉上の明け渡しは、たとえ感情をともなっていても、緊張下では失意のうちに終わってしまう。最善の場合でも、それは熱望を表すが、実際的事実をではない。


質問者
『リグ・ヴェーダ』のなかでアディ・ヨーガ、原初のヨーガについて言及されています。私が理解するには、それは智慧(ちえ)と生命を結びつけることを意味するプラジニャー(高次の意識)とプラーナ(生命の呼吸の気、生命の原理、生気)の結婚から成るものです。あなたなら、それはまたダルマ(宇宙の法と秩序、正義)とカルマ(行為)、公正さと行為の統合をも意味すると言われるのでしょうか?


マハラジ
もし公正さが自己の真の調和を意味し、利己的な無欲の行為を意味するのであれば、そのとおりだ。
 アディ・ヨーガにおいては人生そのものがグル(師)であり、マインドが弟子なのだ。マインドは人生に仕え、それを支配したりしない。人生は自然に努力なしに流れ、マインドは流れをすみやかにするために障害物を取り除くのだ。


質問者
人生はその本性から言って反復的なものではないでしょうか? 人生にしたがっていくことは沈滞に導くのではありませんか?


マハラジ
それ自体では、人生は途方もなく創造的なものだ。一粒の種子が、やがて森林となる。マインドは森林官のように、存在の膨大な生命力の衝動を保護し調整しているのだ。


質問者
マインドによる生命への奉仕という見方をすれば、アディ・ヨーガは完全な民主主義です。誰もが彼の最善の能力と知識で人生を生きることに従事し、誰もが同じグルの弟子なのです。


マハラジ
あなたの言うとおりかもしれない。可能性としては、おそらくそうだろう。だが、人生が熱望と熱心さをともなって愛され信頼されるまでは、意識のなかの動き、行為のなかの気づきであるヨーガについて語ることは夢想的なものでしかない。


質問者
あるとき、私は岩の合間を流れる渓流を眺めていました。それぞれの岩で、岩の大きさと形にしたがって流れの動きは異なっていました。個人とは皆、単に身体の上を流れる動きであり、同時に生命はひとつであり永遠なのではありませんか?


マハラジ
流れの動きと水は別々のものではない。流れの妨害があなたに水の存在を気づかせたのだ。意識は常に運動と変化のなかにある。不変の意識といったものはありえない。不変なるものは即座に意識をぬぐい去るだろう。内面、あるいは外面の感覚を奪われた人は意識を失い、あるいは意識と無意識を超えて不生不死の状態のなかへと入っていくだろう。霊魂と物質が出会ったときにだけ意識は生まれるのだ。


質問者
それらはひとつでしょうか、二つでしょうか?


マハラジ
それはあなたが使う言葉によって、ひとつ、二つ、あるいは三つなのだ。調べていくことで三つは二つとなり、二つはひとつとなる。顔と鏡とイメージという直喩で見てみなさい。どの二つをとってみても、その二つを結びつける第三の存在が前提にある。あなたが二つはひとつだと悟るまでは、修練によって三つを二つとして見るのだ。
 あなたが世界に没頭しているかぎり、あなた自身を知ることは不可能だ。あなた自身を知るためには、世界から注意を引き離し、内面へと向けなさい。


質問者
私には世界を破壊することはできません。


マハラジ
その必要はない。ただ、あなたが見ているものは、あるがままのものではないということを理解しなさい。現れは調べることによって消え去り、根源的な実在が表層に現れるだろう。逃げだすために家を燃やす必要はない。あなたはただ歩いて外に出るだけだ。家が牢獄となるのは、あなたが自由に行き来できなくなったときだけだ。私は意識から自由に自然に出たり入ったりすることができる。そしてそれゆえ、世界は我が家であって牢獄ではないのだ。
★私の補足
【意識から自由に自然に出たり入ったりすることができる】
顕在意識(表面意識、自我)しか使っていない普通の人は困難に合うと閉塞感を感じて、自宅や世界を刑務所や牢獄、地獄のように感じて絶望したりする。
 自我を少し広げる事が出来る人は世界市民(コスモポリタン)、自分のことを常に地球人だという認識で物事を考えるように意識が拡大する。そして生と死が一つであるという真理、宇宙の摂理を悟ると自分自身が永遠の集合意識(高次の意識、大我)だと目覚める。世界中のどこへ行ったとしても我が家に居るような、尽きる事のない安心感に包まれる。


質問者
しかし究極的に、世界は存在するのでしょうか、しないのでしょうか?


マハラジ
あなたが見ているものは、ほかでもないあなたの自己なのだ。あなたの好きなようにそれを呼ぶがいい。それが事実を変えることはない。運命のフィルムを通して、あなた自身の光がスクリーン上に絵を描いていく。あなたはそれを鑑賞する人であり、光であり、絵であり、スクリーンでもあるのだ。運命のフィルムさえも自ら選択され、自らに課されたものだ。その精神は障害を乗り越えることを楽しむひとつの競技だ。その努めが困難なほど、真我の実現はより深く広いものとなるのだ。


★補足
インド哲学のリーラ思想

リーラ 
リラ(ヒンドゥー教)
大まかに翻訳することができます 「神の遊び」
非二元論の中で、リラはすべてを説明する方法です 現実、 含んでいる 宇宙、神の絶対による創造的な遊び。
現代の解釈
ブラフマンはすべての完璧さに満ちています。そして、ブラフマンが世界を創造することに何らかの目的を持っていると言うことは、それが創造の過程を通してそれが持っていない何かを達成したいということを意味します。そしてそれは不可能です。したがって、世界を創造する上でバラモンの目的はあり得ません。世界はバラモンの単なる自然発生的な創造物です。それはバラモンのリラ、またはスポーツです。
ヒンドゥー教の神話の基本的な繰り返しのテーマは、神の自己犠牲による世界の創造、つまり「神聖にする」という本来の意味での「犠牲」であり、それによって神は世界になり、最終的には再び神になります。この神の創造的な活動は、神の演劇であるリラと呼ばれ、世界は神の演劇の舞台と見なされています。

×

非ログインユーザーとして返信する