中高年応援チャンネル 57歳 地球旅行 日記

人間と呼ばれている生物を操縦して地球を旅行中。自分自身の為の備忘録。

私の愛読書「誰がかまうもんか?! ラメッシ・バルセカールのユニークな教え」


ラメッシS.バルセカール(1917年5月25日– 2009年9月27日 92歳没)
有名なアドヴァイタマスターである故スリ・ニサルガダッタ・マハラジの弟子でした。幼児期から、バルセカールは非二元論の教え、特にラマナ・マハルシとウェイ・ウー・ウェイの教えに惹かれました。彼は20冊以上の本を書き、インド銀行の総裁を務め、ムンバイの自宅で彼の死の直前まで毎日ゲストを迎えました。




参考になるレビューを発見したので転載!
★★★★★簡潔に書かれた真理
2020年5月17日にレビュー
いやあ、これはすごい本です。
マハルシやニサルガタッタを読んできましたが。まあ、そういうことなんだろうなあ、という答えが簡潔に書いてあります。しかし、頭で理解しつつも、この本の聞き手も読者も、もう一つ肝心なことが理解できないでいることは認めなくてはいけません。具体的に何をすれば、ラメッシみたいになれるのか?
この問い自体がズレていることは理解できるのですが、その先に、進み方がわかりません。
今日もまた、再読三読。

このレビューに私が回答するなら、何度も非二元、ノンデュアリティの本を読むと、内容は忘れても、体得している自分を発見するのです。数年後に(笑)
昔の自分なら不安になっていたはずの老後に入ったはずなのに、なぜか不安に感じない普通のフラットな意識、明鏡止水の境地に近い意識が身に付いている。普通すぎて、それを悟りの境地だとも考えない。あれほど本を読んで心を落ち着かせていた時代もあったのに、本を読まなくても不安感が来なくなっていた。平坦な気分が苦労なく維持できている。
一喜一憂していた過去の感情の起伏が大きかった頼りない自分が居なくなり、泰然自若とした自分自身に気づく。
他人から、どうしたらそのような性格になったのか質問されても、具体的な回答が思いつかない(笑) 
強いて言えば、ノンデュアリティの本を読んだ影響だと言えるのだけれど、ノンデュアリティの要点は普通過ぎて、その効果、効き目は数年後、数十年後に静かに発動する笑




第1章 32p~
生命には何の価値もない


アルタ
そもそもこうしたことすべては、なぜ始まったのですか?


ラメッシ
あなたは、絵の中に一人の人物を描きました。そして、その人物は、なぜあなたがそもそも絵を描いたのかを知りたがります。それに対する唯一の答えは、あなたがただそうしたかったからです。
 子供を海辺へ連れていって、シャベルとバケツを与えてごらんなさい。すると、子供はすぐ砂を掘りはじめ、それを積みあげてはお城や山を作りあげるでしょう。それをやるのは、時間も手間もたいへんなものです。でも、両親が「もう家へ帰る時間だよ」と言うと、子供は、あれほど時間と手間のかかった砂のお城を蹴飛ばして、壊してしまいます。もしあなたが子供に、「どうして君はわざわざお城を作って、そして今度は壊してしまったの?」と訊いたら、子供はあなたの質問を理解しないでしょう。あなたがしつこく尋ねれば、その子は、「僕がお城を作ったのは、そうしたかったからだし、壊したのも、そうしたかったからさ」とでも答えるでしょう。
 ここで肝心なのは、知的思考(つまりエゴのことですが)は、すべてのものごとには目的があるものだと、はじめから条件づけられています。生命には目的があるはずだ。なぜって、生命は貴重だから。テレビでナショナル・ジオグラフィックとかBBCの番組を見てごらんなさい。自然を見れば、生命は決して貴重でなんかないことがわかります。生命には価値がない。そう感じませんか? それには価値がない。鳥が卵を産み、それを別の鳥が食べる。そして、また別の何かがそれを食べる。
 生命には本当に意味があるのか、それは、ただ起こるだけなのです。知的思考はそれに意味を与え、それから、その意味を知りたがります。生命には意味などありません。生命の本当の意味は、生命には意味がないことにあります。それは、ただ起こるだけなのです。


最も意地悪な人


フィリップ
最近のアドヴァイタ(非二元論)の先生に何人か会ってから、私は、あなたがものごとを説明するやり方に本当に感謝しています。あなたはすべての先生の中で、いちばん意地悪です。あなたは最高の正直さでもって、ただちにその場でものごとを正す方です。私は、みんながそのことに非常に感謝していると思います。


ラメッシ
あなたは、私がニンジンを差し出さないので、多くの先生の中でいちばん意地悪だと言うわけですね。私が言っているのは、得るべきニンジンなんてない、ってことです。多くの人たちは、何らかのニンジンを与えてもらいたがります。いまだにニンジンが欲しい人たちは、ニンジンを得ることができる場所へ行き、ニンジンを食べた後で、自分がまだ不満足であることに気づき、ここへやってきます。


明晰さ、あるいは混乱


プレム
ラメッシ、私もまたあなたの話を聴くのがとても好きです。どういうわけか、あなたはものごとを表現するユニークな明晰さを備えておいでです。


ラメッシ
あなたはユニークって言いましたか? どのようにユニークなのでしょう? 真実はただ
一つです。


プレム
真実は一つであっても、あらゆる表現はユニークであるように見えます。ところが、どういうわけか結果は同じで…


ラメッシ
結果は、混乱か明晰さのどちらかです。あらゆる先生がユニークであり、明晰さか混乱のどちらかを生み出しています。ですから、もし教えというものが混乱を生み出すとしたら、それはなぜでしょう? もちろん先生は、混乱させようとは思ってもいませんでした。


プレム
たぶんそれは、先生自身が混乱しているからでしょう、だから…


ラメッシ
では、どうして先生たちは混乱しているのでしょうか? なぜなら神の意志だからです。


プレム
もちろん、そうですね!


ラメッシ
なぜ先生たちは混乱しているのか? それは、彼らが他の人たちを混乱させるようになっていたからです。それでは、なぜこうしたことが起こるんでしょうか? なぜなら。それが神の意志だからです。なぜそれらが神の意志だかわかりますか?『バガヴァッド・ギーター』 
では次のように言っています。「何千人もの人の中で、探求者はたった一人しかいない。そして、一生懸命に求めているその探求者たちの中で、一人だけが私を本質において知る」。
ですから、何千人もの探求者は混乱させられる必要があるのです。混乱した先生たちがいなければ、どうして彼らを混乱させることができるでしょう? それさえ神の意志である。
これが、私の言わんとしていることです。


プラティマ
あるいは、先生は混乱していないかもしれませんが、でも弟子が、準備ができていないということもあるでしょう。


ラメッシ
もちろんです。それもまた神の意志です。


プラティマ
そうすると私達は、かわいそうな先生たちを責めることも、まったくできないわけですね。


ラメッシ
あなたは決して誰も責めることはできません。だから、『バガヴァッド・ギーター』では、
また次のようにも言っているのです。「あなたはどんな罪を犯すこともできないし、称賛に値する行為をおこなうこともできない。あなたの原初の理解は、無知によって曇らされている。そのせいで、あなたはものごとを功罪でしか見ないのだ」。これは主クリシュナが『ギーター』の冒頭で言っていることで、終わりは次のようになっています。「私に明け渡しなさい。そうすれば、自分が犯してしまったと考えざるをえないすべての罪から、おまえを救ってやろう」。自分は罪を犯さざるをえないと思うこともまた、神の意志なのです。ですから、もしあなたが自分は罪を犯したと思うのであれば、「私に明け渡せば」、私があなたをすべての罪から解放してあげましょう。だから、明け渡しなさい。でも、ここでのジョークとは、明け渡すことそのものも、あなたがコントロールできることではない、ということです。なぜなら、「私は明け渡す」と言う個人がいるかぎり、明け渡す人がいるのであり、それは個人のエゴだからです。


プラティマ
それを聞いて安心しました。というのは、『バガヴァッド・ギーター』には、著しい相違があるからです。あるところではそう言っておきながら、また別の箇所では違ったことを言っているのです。どんな教えにも、それなりの意義があるのは、とてもすばらしいですね。


ラメッシ
なぜ主クリシュナは、「私はおまえを罪から救ってやろう」などと言うのでしょう。彼には、特定の肉体精神機構のプログラムにもとづいているアルジュナの理解力では、最高のレベルで真実を理解することができないとわかっているからです。だから、主クリシュナは、アルジュナのレベルまで降りてくる。つまり、「あなたのレベルでは、あなたは自分が罪を犯していると考えているけれど、私にゆだねれば、あなたを救ってあげよう」となるわけですよ。しかし、私が言っているのは、ゆだねることさえ、アルジュナがコントロールできることではない、ということです。


プラティマ
では、ここでの矛盾は…


ラメッシ
何も矛盾なんかありませんよ。なぜかって? その解釈はこうです。「私は何の罪も犯していない、なぜなら、私は何の行為もしていないから。行為をしていないのに、どうして、私に罪を犯すことができるだろう?」。そういう理解が突如生じるなら。それが神の意志なら、それ以外はどうでもいいことです。でも、肉体精神機構が、理解が突然生じるようにプログラムされていなければ、そのときには、主クリシュナは何百万人のアルジュナのために、どんな低いレベルまで降りてくるわけです。


聖なるジョーク  エゴが自分の消滅を「望む」


ラメッシ
抵抗勢力とは、エゴです。冗談ではなく、エゴは簡単にはあきらめないでしょう。


ロバート
でも、エゴを消滅させたいという欲望こそが、まさにエゴを生かしつづけることになるのですね。


ラメッシ
何しろ冗談です。それは聖なるジョークなのですよ。つまり、エゴとは聖なる催眠なのです。そもそもエゴはどこから来たのか? それこそが問題ではないでしょうか? 誰もがエゴが問題で、するべきことはただ「自分の」エゴを放棄することだけだ、と言います。でも、誰も、どうやって「自分の」エゴを放棄するかを教えてくれません。「自分」がエゴなんですよ! その「自分」が、エゴであり、エゴは自殺はしないものです。エゴは、すべてが生まれた同じ源泉からしか生まれることはできなかったはずです。物理的な現象化は、源泉から来ます。虚構の「自分」も、源泉から来たのです。
 なぜ源泉が虚構の「自分」を創造したのかと言えば、「自分」がいなければ。人間関係が起こらないからです。そして、人間同士の関係がなければ、私たちが知っているような人生は起こりません。私たちが知っているような人生が起こるために、神のリーラ、すなわち遊びが生じるためにエゴというものが、そこになければなりません。エゴとは単に「『自分』は行為者であり、この体を支配している分離した存在である」という、聖なる催眠を通じて生まれた感覚なのです。でも、本当に存在しているのは、ただ肉体精神機構とその中を流れるエネルギーだけです。
 それが基本原理で、それは電気器具に電気が流れるのとまったく同じことです。でも、もし電気器具が催眠にかけられているとしたら、電気器具は、「自分」がトーストを作っているとか、「自分」が野菜ジュースを作っているとか、「自分」が光りを生み出しているように考えるでしょう。基本的には、電気と器具があるだけです。単にそれと同じで、源泉、神がエゴを創造し、またあるときは、エゴの消滅を徐々におこなっていくのも神、というわけです。


~中略~


「誰も」悟りを得ることはできない


ラメッシ
「誰も悟りを得ることはできない」という言葉の意義は何でしょうか? それは何を意味しているのでしょうか? これがまさに教えの根本です。誰か、いわゆるマスターが悟りを得るために、あるいは、悟りを達成するために、人に何かをおこなうように求めるとしたら、それはばかげています。私の考えでは、このシンプルな言葉の核心は、悟りとは、悟りを
「欲しがる」「人」が消滅するということです。もし悟ったら、そしてそれは神の意志があるときにのみ起こるものですが、それは、その前に悟りを欲しがっていた「人」が消滅したわけです。ですから、「誰も」悟りを達成することはできないし、したがって、誰も悟りを楽しむことなどできないのです。


百万ドルか、それとも悟りか


ラメッシ
悟りを得ることは、あなたがコントロールできることではありません。また、百万ドルを得ることも神の意志であり、その肉体精神機構の運命と言えます。ですから、あなたが百万ドルを望むのか、または悟りを望むのか、そして、あなたが自分の望んだものを得るかどうかも、あなたがコントロールできることではないのです。もしあなたが、自分はそれをコントロールできると思うのであれば、悟りの代わりに百万ドルを追い求めるように私は提案します。なぜかと言えば、もしあなたが百万ドルを得れば、そのときには、その百万ドルを楽しむ誰かがいるからです。でも、あなたが悟りを求めて、悟りが起きたとしても、そのときには悟りを楽しむ人が「誰も」いないのです。



第2章 意識は存在するすべてである 57p
~中略~


ラメッシ
意識が、存在するすべてです。休息している意識が動きになると、現象がわき起こります。
現象の機能とは、私たちが知っているような人生です。源泉、すなわち意識の意志でないかぎり、この世で何ごとも起こりえません。
 神の意志への信仰が失われると(それさえ神の意志ですが!)親切心と慈悲が現れます。そして、親切心と慈悲が失われると、すべきことと、すべきでないことという道徳がわき起こります。道徳が失われると、宗教的教義がやってきます。宗教は形骸化し、神への信仰の核ではなくなるので、宗教戦争が始まるというわけです。※


※私の追加補足(宗教戦争さえも神の意志)

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