中高年応援チャンネル 57歳 地球旅行 日記

人間と呼ばれている生物を操縦して地球を旅行中。自分自身の為の備忘録。

第82章 絶対的な完成は今ここにある(432p~438p)「ニサルガダッタ・マハラジとの対話」

平凡な人間である私の愛読書からの転載(432ページ~438ページ)画像は拾い物
2005年に購入した私の本は開き過ぎて2つに分割してボロボロ(笑)

「アイ・アム・ザット 私は在る ニサルガダッタ・マハラジとの対話」
第82章 絶対的な完成は今ここにある 


質問者
戦争が起こっています。戦争に対するあなたの態度とは
どのようなものでしょうか?


マハラジ
ある場所、または他の場所で、ある形で、あるいは他の形で、
戦争はつねに起こっている。戦争の起こらなかった時が
かつてあっただろうか? ある人は、それは神の意志だと言う。
ある人は、それを神の戯れだと言う。
それは戦争とは不可避であり、誰の責任でもないということの
別の言い方にすぎない。


質問者
しかし、あなた自身の態度とはどのようなものでしょうか?


マハラジ
なぜ私に態度を押し付けるのかね?
私自身のものと呼べる態度を私は持っていないのだ。


質問者
この恐るべき無意味な虐殺の責任を取るべき誰かが
必ずいるはずです。どうして人々はそんなにも互いに
殺しあう用意があるのでしょうか?


マハラジ
その犯人を内側に探し求めなさい。すべての衝突の根本には
『私』と『私のもの』という観念があるのだ。
それらから自由になりなさい。そうすればあなたは衝突から
解放されるだろう。


質問者
私が衝突から解放されたからといって、それが何に
なるのでしょう? それが戦争に影響を与えはしないでしょう。
もし私が戦争の原因ならば私は破壊される用意があります。
それでも、何千人もの私のような者の消滅が戦争を止めることが
ないのは明らかです。それらは私の誕生とともに始まったのではなく、
私の死とともに終わるのでもありません。
私に責任はないのです。誰にあるというのでしょうか?


マハラジ
争いや闘いは存在の一部分なのだ。どうしてあなたは存在の責任が
誰にあるのかを調べないのだろうか?


質問者
なぜあなたは存在と衝突が不可分だというのでしょうか?
闘うことなしには存在はありえないと言うのでしょうか?
 私自身であるために他者と闘う必要はありません。


マハラジ
あなたは『身体―精神』特定の名前と形として存続するために
つねに他者と闘っているのだ。生きるために、あなたは破壊しなければ
ならない。懐妊された瞬間から、あなたは周囲と戦争を始めたのだ。
死があなたを解放するまで相互に根絶しあう残酷な戦争を。


質問者
私の質問にはまだ答えられてはいません。
あなたは単に私の知っていることを描写しているだけです。人生とその
不幸を。しかし、あなたは誰に責任があるのかを言いません。私がせが
むと、あなたは神やカルマ、あるいは私の欲望や恐れを非難し、それは
単にそれ以上の質問を招くだけなのです。どうか最終の答えをください。


マハラジ
最終の答えとはこれだ。何も存在しない。すべては宇宙的意識界のなかの
一時的な現れだ。名前と形としての継続性は容易に一掃できるただの精神的
形態なのだ。


質問者
私は直接の一時的な現れについて尋ねているのです。
ここに兵士によって殺された子供の写真があります。あなたをにらみつけて
いる。それは事実です。あなたはそれを否定できません。さて、この子供の
死の責任は誰にあるのでしょうか?


マハラジ
誰の責任でもない。あるいは皆の責任だ。世界とは、それが包含するものであり、
それぞれがその他のすべてに影響を与えるのだ。私たち皆が子供を殺し私たち皆が
子供とともに死ぬのだ。すべての出来事には無数の原因があり無数の結末を生み出
している。責任の所在を求めることは何の役にも立たない。何に起因するわけでも
ないのだ。


質問者
あなたの国の人々はカルマや因果応報という言葉を使います。


マハラジ
それは総体として真実に近いというだけだ。実際には私達は互いの創造者と創造物で
あり互いの重荷の原因であり、互いの重荷の重さに耐えているのだ。


質問者
では無実の人が罪で苦しんでいるというのでしょうか?


マハラジ
無知であることで私達は無実なのだ。行為のなかで私達は有罪だ。
私達は知らずに罪を犯し理解することなく苦しむのだ。
私達の唯一の希望は、止まって、見て、理解し,記憶の罠から
抜け出すことだ。なぜなら記憶が想像をあおりたて、想像が欲望と
恐れをひき起こすからだ。


質問者
いったい、なぜ私は想像するのでしょうか?


マハラジ
意識の光が記憶のフィルムを通してあなたの脳に画像を投影するのだ。脳の欠陥と
混乱の為にあなたが知覚することは歪曲し好き嫌いの好みに色づけされてしまう。
あなたの思考を秩序あるものにし、過度の感情的な意味づけから自由になりなさい。
そうすれば、あなたは人々やものごとをあるがままに明晰性と慈愛をもって見ること
だろう。誕生、人生、死の観照者は同一だ。それは愛と苦痛の観照者なのだ。なぜなら限定と分離の存在が悲しみに満ちたものであるにもかかわらず、私達はそれらを愛しているからだ。私達はそれを愛し同時に憎んでいるのだ。私達は争い、殺し、命や所有物を破壊する。それにもかかわらず私達は愛情深く献身的なのだ。私達は優しく子供の世話をする。そして子供を捨てもするのだ。私達の人生は矛盾に満ちている。しかしそれでも私達はそれにしがみつく。この執着がすべての根底にある。その上それは完全に表面的なものだ。私達は何かに、あるいは誰かに全力でしがみつき、そして次の瞬間それを忘れてしまう。子供が泥だんごをつくり軽い気持ちで捨て去ってしまうように。それに触れてみなさい。子供は怒りとともに泣き叫ぶことだろう。気をそらしてみなさい。彼はそれを忘れてしまう。なぜなら、私達の人生は今に在るからだ。そして人生への愛は今に在るからだ。私達は多様性を、苦痛と快楽の劇を愛している。私たちは対比によって魅せられているのだ。このために対立するものと、それらの表面上の分裂を必要としている。しばらくの間それらを楽しみ、それから退屈して純粋な存在の平和と沈黙を切望するのだ。宇宙のハートは絶え間無く鼓動している。
あなたはその観照者であり、そのハートでもあるのだ。


質問者
私は絵を見ることはできますが画家は誰なのでしょうか?
誰がこの悲惨な、しかし称賛すべき体験の責任を取るのでしょうか?


マハラジ
画家は絵の中にいるのだ。あなたは画家を絵から引き離し、そして彼を探そうとする。
分割してはいけない。偽りの質問をしてはいけない。ものごとはありのままだ。
そして誰か特定の人に責任があるわけではない。個人的責任という考えは媒介者という
幻想から来ている。
『誰かがそれをしたに違いない、誰かに責任がある』と今のような社会と、その法律と習慣の構成は分離した責任ある個人という考え方を根底にしている。だが、これが社会にとって
選択できる唯一の形態ではない。分離の感覚が弱く責任が拡散した別の類いの社会形態もありうるだろう。


質問者
個性の弱いひとりの個人、彼は真我の実現により近いと言えるのでしょうか?


マハラジ
幼い子供を例に取ってみなさい。『私は在る』という感覚はまだ形成されていない。個性は未発達だ自己知識への障害はほとんどない。だが、気づきの明晰性、その広さと深さが欠けているのだ。時が経つにつれて気づきはより強く成長するだろう。しかし、潜在的人格が現れだし、それが妨げそして複雑にしてしまう。木材が堅いほど炎が熱いように個性が強いほどその破壊によって生じた光はより輝くのだ。


質問者
あなたは何の問題もないのでしょうか?


マハラジ
私には問題がある。もう言ったはずだ。在ること、名前と形とともに存在することは苦痛に満ちたものだ。それでも私はそれを愛している。


質問者
しかし、あなたはすべてを愛しているのです。


マハラジ
存在の中にはすべてが含まれている。
私の本性そのものが愛なのだ。苦痛に満ちたものでさえ愛すべきものなのだ。


質問者
それが苦痛を弱めるわけではありません。
なぜ無限の中にとどまらないのでしょうか?


マハラジ
それは探求の本能なのだ。未知への愛。それが私を存在の中へと連れだしたのだ。
在ることの中に平和を探すことが成ることの本性そのものであるように、成ることの中に
冒険を見いだすことが在ることの本性そのものなのだ。この在ることと成ることの交替は
不可避だ。だが、私の住処はその彼方にあるのだ。


質問者
あなたの住処は神の中にあるのでしょうか?


マハラジ
ある神を愛し礼拝することも、また無知なのだ。私の家はいかに高尚なものであろうと
すべての概念の彼方にある。


質問者
しかし、神は概念ではありません。それは存在を越えた実在です。


マハラジ
どんな言葉でも好きなように使うがいい。
何であれ、あなたの考えることを私は越えているのだ。


質問者
ひとたびあなたの家を知ったのなら、なぜそこに住まないのでしょうか? 
何があなたをそこから連れだしたのでしょう?


マハラジ
集合的な存在への愛から、人は生まれる。そしてひとたび生まれたなら、人は運命に
巻き込まれる。運命とは、成ることから分離できないものだ。特定のものに成ろうと
する欲望が、個人的な過去や未来といった、すべてを含んだ個人にあなたを仕立てあげ
るのだ。ある偉大な人物を見てみなさい。何と素晴らしい人物だったのだろう!
だが、何と彼の人生は困難に満ち、その成果は限られたものだったろうか。何と人の人格
は完全に依存したものか。そして何と世界はそれに無関心なのだろうか。それにもかかわらず、私達はそれを愛し、その取るに足らない無意味さゆえ、それを保護するのだ。


質問者
戦争が起こっています。そこには混沌があり、あなたは食物供給センターを監督するように頼まれます。あなたは必要とされるものを与えられ、それはただ仕事を通して得るということがらにすぎません。あなたはそれを拒絶するでしょうか?


マハラジ
働くか、働かないかは私にとって同じことだ。私は監督するかも、しないかもしれない。
そのような仕事には、私よりふさわしい他の者達がいるかもしれない。例えば本職の飲食店業者のように。
★【だが、私の態度は異なっている。子供の誕生を祝わないように、私は死を災難としては見ないのだ】
子供は困難の中へと生まれ出てきた。死者はそこから立ち去るのだ。生命への執着は不幸への執着だ。私達は私達に苦痛を与えるものに執着するのだ。私達の本性とはそんなものだ。
私にとって、死の瞬間は恐れではなく祝福の瞬間だ。
私は泣いて生まれてきた。私は笑って死ぬだろう。


質問者
死の瞬間における意識の変化とは何でしょうか?


マハラジ
どのような変化を期待するというのだろう? フィルムの投影が終わった時、後に残るのはそれが始まった時と同じものだ。あなたの誕生以前の状態は、またあなたの死後の状態なのだ。もしあなたが覚えているとすればだが。


質問者
私は何も覚えていません。


マハラジ
なぜなら、あなたはけっして試みたことがないからだ。それはただマインドの波長を合わせる問題なのだ。もちろん、それには訓練が要求される。


質問者
なぜあなたは社会活動に参加されないのでしょうか?


マハラジ
だが、私はほかでもないそれだけをいつもしているのだ。どんな社会活動を私にしてほしいと言うのだろう? 寄せ集めの仕事は私のものではない。私の立場は明らかだ。分配するまえに生産しなさい。あなたが食べる前に食事を与えなさい。あなたが取る前に与えなさい。
あなた自身のことを考える前に、他者のことを考えなさい。分かち合いに根ざした非利己的な社会だけが安定した幸福な社会なのだ。これは実質的な解決法にすぎない。もしあなたがそれを望まないのなら、闘うがいい。


質問者
それはすべてグナ(属性)の問題です。
タマス(受動性)とラジャス(活動性)が支配するところでは争いは避けられません。
サットヴァ(純粋性)が支配するところには平和があるでしょう。


マハラジ
あなたの好きなように表現するがいい。
それは同じことだ。社会は動機によって構築されている。根底に善意を敷きつめなさい。
そうすれば、特別な社会事業家は必要なくなるだろう。


質問者
世界はより良くなってきています。


マハラジ
世界は常により良くなるべきだった。
しかし、それでもそうならなかった。未来にどんな希望があるというのだろうか?
もちろん、サットヴァ(純粋性)が上昇している時、そこには調和と平和の期間があった。
だが、ものごとはそれ自体の完成によって破壊されるものだ。
完全な社会は静的であることを余儀なくされる。それゆえ、それは停滞し、崩壊するのだ。
頂上からすべての道は下へと向かっていく。社会は人々のようなものだ。それは生まれ、
成長し、ある地点で相対的な完成を遂げ、そして衰退し、死を迎えるのだ。


質問者
崩壊しない絶対的な完成の状態はあるのでしょうか?


マハラジ
何であれ、はじまりあるものには終わりがなくてはならない。
永遠の中では今ここですべてが完全なのだ。


質問者
しかし、私たちはやがて永遠に到達するのでしょうか?


マハラジ
時が来れば、私達は始まりの地点に戻ってくる。空間が空間の外に私達を連れだすことができないように、時間は時間の外に私達を連れだす事はできない。待つことであなたが得るのは、さらに待つことだけだ。
★【絶対的な完成は、近くか遠くか、いつかの未来にではなく、今ここにある。秘密は今ここの行為にある。あなた自身に対して盲目にさせるのは、あなたのふるまいなのだ。何であれ、これがあなた自身だと考えていることを無視して、あたかもあなたが絶対的に完全であるかのように行動しなさい。完全性についてのあなたの考えが何であれ。あなたに必要なのは勇気だけだ】


質問者
どこにそんな勇気を見つけられるのでしょうか?


マハラジ
もちろん、あなた自身にだ。内側を見てみなさい。


質問者
あなたの恩寵が助けてくれるでしょう。


マハラジ
私の恩寵が今、内側を見なさいと
あなたに言っているのだ。あなたは必要な
すべてをもっている。
それを使いなさい。あなたの知る最上の
あり方でふるまいなさい。
すべきだと思うことをしなさい。
過ちを恐れてはならない。いつでも
それは正すことができる。
ただ維持が重要なのだ。ものごとが
どのように形を取るかは、あなたの
手中にはない。行為の動機は、あなたに
かかっているのだ。


質問者
どうして不完全から生まれた行為が、完全へと導くことができるのでしょうか?


マハラジ
行為が完全へと導くのではない。
完全性が行為によって表現されるのだ。
表現によってあなた自身を判断するかぎり、
それらには最高の注意を払うがいい。
あなたが自己の存在を実現したとき、
あなたのふるまいは自発的に完全なものとなるだろう。


質問者
もし私が永遠に完全であるなら、いったいどうしで私は生まれてきたのでしょうか?


マハラジ
それは金をひとつの装飾品につくり変えることに、いかなる利益があるのかと尋ねるようなものだ。装飾品は色彩と金の美しさを得るのだ。金が豊かになったわけではない。
同じように実在が行為の中で表現された時、その行為は意味をもち、美しくなるのだ。


質問者
その表現を通して、実在は何を得るのでしょうか?


マハラジ
それが何を得るというのだろう?
まったく何も得はしない。だが、それ自身を表現しそれ自身を肯定し、困難を克服するのは愛の本性なのだ。ひとたび世界は行為の中の愛なのだと理解するならば、あなたはそれをまったく違ったように見ることだろう。しかし、まずあなたの苦しみに対する態度を変えなければならない。苦しみは根本的に注意を求める呼びかけだ。それ自体が愛の動きなのだ。
幸福よりも、愛は意識と存在の広がりと深まりにおける成長を求める。そして愛は苦痛を避けたりはしない。正義と秩序のために働くエネルギー、サットヴァ(純粋性)は妨害されては
ならない。進行を妨害されると、それはそれ自身に敵対して破壊的になるのだ。
いつであれ愛を与えることが控えられとき、そして苦しみが広がることが許されたとき、
争いは不可避となる。隣人の苦しみへの無関心が、私達のもとへ苦しみをもたらすのだ。

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