第3章「意識は語る ラメッシ・バルセカールとの対話」
「意識は語る ラメッシ・バルセカールとの対話」
第3章 束縛という幻想
善と悪(202p~206p)
質問者
私は間違っている人々や制度を変えようとして、人生の多くの時間を費やしてきました。私は自分がそれを放棄できるのかどうかがわからないのです。根本的に間違っていて、変えることが必要なものごとがいくつかあります。
ラメッシ
こういった宗教的考えの本質は、自分は善であるというものです。悪いのは自分ではない。人生の目的は善を求めることになっているというのが、非常に確固として根づいています。それは単にそうではありません。善と悪はいっしょに存在しなければならないのです。
質問者
悪や悪人、悪い制度、あるいは悪い選択のようなものはないと?
ラメッシ
はい、まったくそのとおりです。条件づけは非常に強力です。私はそれがとても困難であることをよく理解できます。しかしながら、下がらなければ上もありえず、後方がなければ前方もありえないのを見るのはとても簡単なことで、後方と前方、上と下は単に相対的な言葉です。片方はもう片方がなければ、意味がありません。正反対の両極は、それほど基本的でシンプルで明白なものですが、それにもかかわらず、私たちの条件づけのせいで、私たちはそれを見ることができません。ですから、理解の最初のかすかな光は、すべての物事には両極があるということ、変化が人生のまさに本質であることを見ることです。それを断固として受け入れることが、ものすごく大きな一歩です。
質問者
そのことは、善と悪は永遠のものではないことを私に暗示しています。
ラメッシ
まさに、たとえば、中絶の問題を取り上げて見ましょう。数年前までは、それは犯罪でした。しかし、今では発展途上国は、それを推進するプログラムをもっています。ですから、善と悪、犯罪でないもの、すべてはその時代の状況に依存しているのです。
質問者
悪い政府、悪い政治があり、ときに非常にひどいことをする集団がいて、私は自分自身を彼らから引き離すことが非常に困難です。私は組織や制度を非個人的やり方で見ることができません。私は個人についてはそのようによりよく見ることができますが、ナチスの第三帝国とかタバコ会社とか、そういったグループの話になると、それらを全体性の現象として見ることが困難です。
ラメッシ
わかりますよ。ラマナ・マハルシは個人といったものはない、すべての事柄は非個人的だと強調しました。でも彼は、個々の探求者たちがとてもみじめになる場合があると見る慈悲も持ち合わせていました。彼は探求者たちのみじめさを描写した十一の散文詩を書きました。彼は個人的観点からの最大の励ましは、心がすでに内側を向いているという知識であり、だから「あなたの頭はすでにトラの口の中にある。もう逃れられない」と言いました。
今日あなたはそれを困難に感じています。しだいに理解が深まれば、その理解があなたの中に忍び込み、今日受け入れ難いことでも明日には明確になることを見てとても驚くだろうと、私は確信しています。すべての個人、すべての集団は、彼らが自分自身の行動だと考えるある行動をもたらすために、ある特徴をもって、神もしくは全体性によって創造されたものなのです。
【私たちはすでに家にいることを忘れている】
質問者
人が覚え続けなければならないかぎり、その人は家にいないとあなたは言っていました。そのことを説明してくれませんか?
ラメッシ
いいですよ。今あなたが家にいるとき、その家がどこにあっても、あなたは自分が家にいることを覚えている必要があるでしょうか? あなたは家にいるのです! そのことがわかりますか?
質問者
はい。
ラメッシ
では、もしあなたが覚えている必要があるなら、そのときは、あなたは家にいないからということになるでしょう。
質問者
でも、人は家にいるかもしれませんが、心が思考に囚われているので、そのことを忘れてしまったのかもしれません。
ラメッシ
でも、あなたが覚えている必要があるかぎり、それは心があなたを家から連れ出したことを意味しています。事実、あなたを家から連れ出すのはいつも心です。さもなければ、あなたは決して家を離れなかったのです。
質問者
でも、多くの人たちにとっては、自分が家から遠く離れているという感覚です。
ラメッシ
はい、実にそのとおりです。そのため、自分はいつも家にいるというこの感覚や確信がわき起こるとき、あなたはもはや覚えておく必要がなくなるのです。自分は決して家を離れたことがなかったという確信があることでしょう。だからあなたは、自分が家にいることを覚えている必要がなくなるのです。「ただ在りなさい」という命令は、実際たいした重要性をもちません。あなたが「ただ在る」という観点で考え続けるかぎり、「誰が在ることになるのか?」という質問がたえず起こることでしょう。
質問者
あるいは、「どうやってそれをやるのか?」
ラメッシ
はい。「どうやってそれをやるのか?」は、まさに心が常に質問し続けていることです。それが問題の確信です。
★私の補足:家=真我。心(思考)が私たちを真我という家から引き離すことで、不安・迷い・想像・妄想が発生する。肉体がどこの場所に行っても、常に真我は、あなたと共に居る。真我はあなたと一心同体なので離れる事は不可能のなのです。別の言い方をすると人は悟りの中に居るのに悟りを求めてしまうことで、逆に悟りから離れてしまう。眼鏡を掛けている事を忘れて眼鏡を探してしまう。思考に囚われると家、真我、眼鏡の存在が見えなくなり、感じられなくなって、不安に襲われる。
★思考を停止させると、本来の真我で動けるようになる。別の言い方をすると、無心で動いた時に良い結果が出た経験が誰にでもあると思うが、まさにあれが悟りの状態なのです。
ゾーンに入った時なのです。