中高年応援チャンネル 57歳 地球旅行 日記

人間と呼ばれている生物を操縦して地球を旅行中。自分自身の為の備忘録。

⑩第16章「ニサルガダッタ・マハラジとの対話」

「アイ・アム・ザット 私は在る ニサルガダッタ・マハラジとの対話」(2005年)
I AM THAT Talks with Sri Nisargadatta Maharaj (1973年)


ニサルガダッタ・マハラジ(1897年4月17日- 1981年9月8日84歳)インド・ムンバイ


英訳者・編集者の覚え書
第2章 身体への固執
第5章 生まれたものは死ななければならない
第8章 真我はマインドを越えて在る
第10章 観照
第12章 個人は実在ではない
第24章 神はすべてを為す者、ジニャーニは無為の人
第29章 生きることが生命の唯一の目的だ
第34章 マインドは落ち着きのなさそのものだ
第46章 存在の意識は至福だ
第66章 幸福へのすべての探求が不幸だ
第82章 絶対的な完成は今ここにある
付録Ⅰ ニサルガ・ヨーガ
訳者あとがき

第16章 無欲、最大の至福 67P~72P


質問者
今まで多くの真我を実現した人に会いましたが、解脱した人には一度も会ったことがありません。あなたは解脱した人に会いましたか? それとも、解脱した人は身体をも放棄した人なのでしょうか?


マハラジ
真我の実現と解脱という言葉で、あなたは何を意味しているのだろうか?


質問者
真我の実現とは、世界が意味をもち、物質と本質の統合が偏在する、素晴らしい平和、善、そして美の体験です。そのような体験は長続きしませんが、忘れることもできません。それは記憶と切望として、心のなかで輝きます。自分の言っていることは理解しているつもりです。私自身そのような体験をしましたから。
 解脱とは、その素晴らしい状態のなかに永久にとどまることです。私が尋ねたかったことは、解脱とは身体の放棄も意味するのかということです。


マハラジ
身体のどこが問題なのかね?


質問者
身体は弱く、短命です。それは要求や欲望を生みだし、それが人生を悲惨にも限定するのです。


マハラジ
だからどうだというのだろう? 身体の表現がかぎられているならば、そうあればいい。しかし、解脱とは自分に押しつけてきた誤った自己の観念からの自由になることなのだ。それはどんなに輝かしいものでも、ある特定の体験のなかに含まれるようなものではない。


質問者
それは永遠のものなのでしょうか?


マハラジ
すべての体験は時間の限界内にある。何であれ、はじまりあるものは終焉を迎える。


質問者
では、私が言う意味での解脱というものは存在しないのでしょうか?


マハラジ
その反対に、人はいつも自由なのだ。あなたは意識しており、また自由に意識できる。誰もそれをあなたから奪い取ることはできない。今まであなたが無意識あるいは非存在であると知ったことがあるだろうか?


質問者
覚えてはいないかもしれませんが、だからといって、それが無意識になったことがないという証明にはなりません。


マハラジ
体験から体験者へと見る向きを変えなさい。そしてあなたができるたったひとつの真の表明、「私は在る」の完全な意味、その重要性を悟るがいい。


質問者
どのようにすればいいのでしょうか?


マハラジ
ここでは、「どのように」ということはない。ただマインドのなかに「私は在る」という感覚を保ち、あなたのマインドとその感覚がひとつになるまで、そのなかに没入しなさい。繰り返し試みることによって、あなたはそれへの愛情と留意の正しいバランスをつかむだろう。そして、マインドは「私は在る」という思考ー感覚のなかに、揺らぐことなく確立するようになるだろう。何であれ、あなたが考え、話し、行なうにも、この不変で愛情深い存在の感覚は、つねにマインドの背景として消えることなく残るだろう。


質問者
そして、それが解脱なのでしょうか?


マハラジ
私はそれを普通と呼ぶ。努力なく、幸せに、行動し、知り、在ることのどこが間違っているのだろうか? なぜ身体の即座の崩壊を期待するような、そんな特別なことと考えるのだろう? 身体に死が訪れることの何が間違っているのだろう? 身体に対する態度を正し、忘れてしまいなさい。甘やかさず、苦しめず、ほとんどの時間、意識的留意の境界下においておけばいいのだ。


質問者
その素晴らしかった経験の記憶が、私を虜にしています。私はふたたびそれを得たいと望んでいるのです。


マハラジ
取り戻したいという願うから、それを得ることができないのだ。切望の状態がすべてのより深い体験を妨げる。何を欲しているかを正確に知っているマインドには、価値あることなど何ひとつ起こらない。マインドが求め描いているようなものに、たいした価値のあるものなどないからだ。


質問者
それでは、求める価値のあるものとは何でしょうか?


マハラジ
最上のものを求めなさい。最高の幸福、もっとも偉大な自由を。無欲が最大の至福なのだ。


質問者
欲望からの自由は、私が求めているものではありません。私が欲しいのは、切望を満たすための自由です。


マハラジ
切望を満たすのはあなたの自由だ。事実、あなたのしていることはそれ以外の何ものでもない。


質問者
試みるのですが、障害がいつも私を挫折させます。


マハラジ
乗り越えなさい。


質問者
できません。私は弱すぎるのです。


マハラジ
何があなたを弱くさせるのだろう? 何が弱みなのだろうか? ほかの者たちは欲望を満たしているのだ。なぜそうしないのかね?


質問者
エネルギーが欠けているに違いありません。


マハラジ
あなたのエネルギーに何が起こったのだろう? それはどこへ行ったのだろうか? あなたはそれをたくさんの反駁する欲望や楽しみの追求にまき散らしたのではないだろうか? あなたには無限のエネルギーの供給がなくなったのだ。


質問者
それがいけないことでしょうか?


マハラジ
あなたの目的は小さく低次のものだ。それはより以上を求めない。神のエネルギーだけが無限だ。なぜなら、神は自分自身のために何も求めないからだ。彼のように在りなさい。そうすれば、すべての欲望は満たされるだろう。目標が高く、望みが広大なほど、あなたはより多くのエネルギーを得るだろう。すべての人のためを想って望みなさい。そうすれば、宇宙はあなたとともに働くだろう。だが、もしあなたが自分の喜びのために欲するなら、それを得るためにつらい努力をしなければならない。欲する前に、受けるだけの価値ある人になりなさい。


質問者
私は哲学、社会学そして教育の研究をしています。真我の実現の夢を見る前に、より精神的成長が必要だと思うのです。私の考えは正しいでしょうか?


マハラジ
生活の糧を得るには、ある種の知識が必要だ。一般的な知識が思考の発展を促すことは間違いない。だが、もしあなたが知識を蓄えることで人生を送るならば、あなたは自分のまわりに壁を築くだけだろう。マインドを超えるために飾りたてられたマインドは必要ない。


質問者
では、何が必要なのでしょうか?


マハラジ
マインドを信頼せず、それを超えていきなさい。


質問者
マインドの彼方に、私は何を見いだすのでしょうか?


マハラジ
存在と智慧(ちえ)と愛の直接体験だ。
質問者
どうすればマインドを超えていけるのでしょうか?


マハラジ
スタート地点は数多くあるが、それらすべて同じゴールに導く。あなたは行為の結果を放棄しながら、私利私欲のない仕事からはじめるかもしれない。そしてマインドを放棄し、最後にはすべての欲望を放棄するかもしれない。ここでは、放棄が作用する要因だ。あるいは、あなたは欲することも、考えることも、為すこともすべて気にとめず、「私は在る」という思考と感情の内にとどまり、マインドのなかで確固として「私は在る」に焦点を合わせるかもしれない。あらゆる類の体験があなたに訪れるだろう。「私は在る」だけが永遠に変わらず、知覚できるものすべは一時的なはかないものだという知識のなかに、揺らぐことなく在りなさい。


質問者
全人生をそんな修行に費やすことはできません。私には義務と仕事があります。


マハラジ
もちろん職務に励みなさい。感情的に巻きこまれず、有益で、苦しみをともなわない仕事は、あなたを因果的に束縛しない。あなたはいくつもの分野に従事し、途方もない熱情とともに仕事をしながらも、内面ではその影響を受けずに、すべてを映しだす鏡のように自由で静かなマインドを保つかもしれない。


質問者
そのような状態が実現可能なのでしょうか?


マハラジ
もしそうでなければ話しはしない。なぜ私が絵空事を言うだろうか?


質問者
誰もが聖典を引用します。


マハラジ
聖典のみを知る者は、実際には何も知らない。知ることとは、在ることだ。私は、私が言っていることを知っている。それは人から聞いたことでも、読んだことでもない。


質問者
私はある教授のもとでサンスクリット語を学んでいます。でも、本当はただ聖典を読んでいるだけなのです。私は真我の実現を探求しており、必要な指導を受けに来たのです。どうか、どうすればよいか教えてください。


マハラジ
聖典を読んだのなら、なぜ私に尋ねるのかね?


質問者
聖典は一般的な指示を示しますが、個人は個別の指導が必要です。


マハラジ
あなた自身があなたの究極的な師(サッドグル)だ。外側の師(グル)は、ただの道しるべにすぎない。あなたの内なる師がともにゴールまで歩いてくれるだろう。なぜなら彼がそのゴールだからだ。


質問者
内なる師には簡単には出会えません。


マハラジ
彼はあなたのなかにいるのだ。困難であるはずがない。内側を見なさい。彼はそこにいる。


質問者
私が内側を見るとき、そこには感覚や知覚、思考や感情、欲望や恐れ、記憶や期待の雲が見えるばかりで、ほかには何も見えません。


マハラジ
それらすべて、そしてまた無も見ているそれが内なる師だなのだ。彼だけが存在する。それ以外はみな、ただの現れにすぎない。彼があなたの真我(スワルーパ)、自由への確信と希望なのだ。彼を見いだし、しっかりとつかんで離してはならない。そうすればあなたは救われ、安全だろう。


質問者
あなたを信じます。それでも、いざ実際に内なる師を見いだそうとすると、それは私から逃げてしまうのです。


マハラジ
「それは逃げてしまう」という考えは、いったいどこからやってくるのだろうか?


質問者
マインドからです。


マハラジ
そして、マインドを知っているのは誰だろうか?


質問者
マインドを観照するものがマインドを知っています。


マハラジ
誰かがあなたのもとへやってきて、「私があなたのマインドの観照者だ」と言ったのかね?


質問者
もちろん、そうではありません。彼もまた、マインドのなかの別の観念にすぎません。


マハラジ
それならば、誰が観照者なのか?


質問者
私です。


マハラジ
そのとおりだ。あなたは観照者を知っている。なぜならあなたが観照者だからだ。観照者を目の前に見る必要はない。ここでもまた、在ることが知ることなのだ。


質問者
はい。私が観照者、気づきそのものだということは理解できます。ですが、それがどう私の得になるのでしょうか?


マハラジ
何という質問だ! どんな利益を期待するというのか? あなたが誰なのかを知ること自体、充分ではないかね?


質問者
自己知識は何の役に立つのでしょうか?


マハラジ
それは何があなたではないか、ということの理解を助け、誤った考えや欲望や行為からあなたを自由にするのだ。


質問者
もし私がただの観照者であるなら、正しいとか間違っているということに何の意味があるというのでしょうか?


マハラジ
あなた自身を知ることを助けるものが正しく、それを妨げるものが間違いだ。真我を知ることは至福であり、それを忘れることが不幸なのだ。


質問者
観照者意識が真我なのでしょうか?


マハラジ
観照者意識はマインドのなかの実在の反映だ。実在はその彼方にある、観照者とは、それを超えて彼方へと通りぬけていくための扉なのだ。


質問者
瞑想の目的とは何でしょうか?


マハラジ
偽りを偽りと見ることが瞑想だ。それは絶えず続いていかなければならない。


質問者
私たちは定期的に瞑想するように言われています。


マハラジ
真実と偽りの区別、そしてその偽りを自ら放棄していく日々の訓練が瞑想だ。初心者には数多くの種類の瞑想があるが、最後にはすべてがひとつに溶け入る。


質問者
どうか、どれが真我の実現への一番の近道か教えてください。


マハラジ
どれが近くどれが遠いということはないが、ある人はより真剣であり、ある人はそれに劣る。あなたに私自身のことを話そう。私は単純素朴な人間だったが、グル(師)を信頼し、彼が私にするようにと言ったことをしたのだ。彼は私に「私は在る」という感覚に集中するようにと言い、私はそうした。彼が、私は考えうる、知覚しうるすべてを超えたものだと言い、私は信じたのだ。私は彼に、私のハートと魂、許されるかぎりのすべての空き時間(家族を支えるための仕事があったため)とすべての注意を捧げた。真剣な修練と信頼の結果、私は三年のうちに真我を実現したのだ。あなたに合う道を選ぶがいい。真剣さが進歩の度合いを決定する鍵だ。


質問者
私へのヒントはないのでしょうか?


マハラジ
「私は在る」という気づきのなかに、揺らぐことなく確立しなさい。これがはじまりであり、またすべての努力の終わりだ。
 


【私自身の解釈、理解】
2005年にマハラジの本に出会い、それまでにもたくさんのインドの賢者や聖者の本を読んでいたので、マハラジの教えに目新しさは感じなかった。マハラジは子供の頃からほとんど学校へ行かず親の農業を手伝い、18歳の時に父親が亡くなってからは、都会に出て職を転々とした英語も話せないインドの雑貨屋の平凡な中年男性が師と出会い、劇的に変わって、インドの賢者、聖者として世界的に知られる存在になったので興味が湧いた。


★マハラジ独自の思想、教えは無いのが、彼の独特な言い回しや強調している箇所が興味深くて、神秘的に感じる。


・魂は永遠なので、肉体の死を恐れる必要はない。という基本的なインドの思想をマハラジはこの本の中で独特な観点から、色んな表現で諭している。例えば、
【永遠の意識の中に、魂と肉体があるのだ。あなたの正体は永遠の意識だ】
【真実は神も輪廻転生も存在しないのだが、あなたが信じる事でそれらが実在となる】
【意識の中の内在するものが顕在化して宇宙が生まれ、すべてはいずれ源に帰る】
ある意味、ある視点では、
宇宙の誕生と消滅は永遠に繰り返す。それは完全で完璧で、何も間違ってはいない。
しかしそれも幻、夢だ。意識の中の幻、夢だ。
ある意味、この宇宙は、我々の集合意識の一時的な夢に過ぎないと言うのだ。
★つまり現在の人類の苦悩の全ても、完全で完璧な宇宙の循環構造のひとつの現象に過ぎないと言い切ってしまい、マハラジはさらに
「私は人の誕生を喜ばないし、人の死も悲しまない」とさえ言い切る。


★マハラジの教えを私自身の理解で簡単に説明すると、
我々の正体は、永遠の意識。その意識の特性として、内在しているものを顕在化して
宇宙を創造する。そして意識がその顕在化した次元(宇宙)を体験する為に、魂と成り様々な生物に宿る。我々は、たまたま現在は、人間の肉体に魂を個別に宿らせて、この顕在化した次元を短期間楽しんでいる。低い次元に来ている為に自分自身が永遠の意識だということを一時的に忘れているだけ。自らが永遠の意識だと言うことを確信して忘れずに生きていれば、徐々に不安が消え、短期間の3次元の旅(人生)を不安なく楽しめるようになる。


マハラジの究極の俯瞰した意識状態の言動の数々が、私は特に好きなのです(笑) 
マハラジの言う通り、私は徐々に不安が消えて、今では95%不安が無い意識状態になった。
たまに体調不良になった時に心が滅入るけれど、数分で平安な気分が復活する。
たまに人間関係で不快な気分になるけれど、数分で晴れやかな気分が復活する。
自分自身の老化も病気も、老後も死後も99%不安を感じていない。
すべての行動を楽しむことに95%変換している。
まだまだ残り5%ぐらい少し辛いと感じてしまう事が数分間ある…。
近くに住む姉の家のトイレ掃除など(笑)


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