中高年応援チャンネル 57歳 地球旅行 日記

人間と呼ばれている生物を操縦して地球を旅行中。自分自身の為の備忘録。

私の愛読書「意識は語る ラメッシ・バルセカールとの対話」

インドのニサルガダッタ・マハラジ(ノンデュアリティ・非二元の賢者)の一番弟子である、
ラメッシ・S・バルセカール(Ramesh S. Balsekar 1917~2009・92歳)
インドの中流家庭に生まれる。
大学を卒業後、銀行に勤めながら、妻と3人の子供を養い、最後は頭取として手腕を発揮する。
銀行を退職後、師であるニサルガダッタ・マハラジ
(Nisargadatta Maharaj)に出会い、覚醒する。
それ以後長年、ムンバイの自宅や欧米で、世界中から訪れる探求者たちの質問に答える日々を送り、2009年9月に92歳で生涯を終える。
 
著書
★『人生を心から楽しむ』2004(マホロバアート発行 現在絶版)翻訳:高木悠鼓
人生を心から楽しむ―罪悪感からの解放 | ラメッシ・S. バルセカール, Balsekar,Ramesh S., 悠鼓, 高木 |本 | 通販 | Amazon
★所有『誰がかまうもんか?』2010翻訳:高木悠鼓 
誰がかまうもんか?! ―ラメッシ・バルセカールのユニークな教え― | ラメッシ・バルセカール, ブレイン・バルドー, 高木悠鼓 |本 | 通販 | Amazon
★『意識は語る―ラメッシ・バルセカールとの対話』2010(4800円)▲図書館で借りて読む
意識は語る―ラメッシ・バルセカールとの対話 | ウェイン・リコーマン, 髙木 悠鼓 |本 | 通販 | Amazon
★所有『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの ―時間以前からあった永遠の真実』2020

補足:ニサルガダッタ・マハラジが話すマラティー語を英語に同時通訳していた弟子は複数人いたがラメッシ・バルセカールの英訳が一番優秀で彼がマハラジの本の出版をマハラジから許可され出版。
ニサルガダッタ・マハラジの2冊の本から第3章と第8章+α - 中高年応援チャンネル(55歳 地球旅行 日記)


★YouTube動画
「ラメッシ、最も重要な事 ~ あなたが幸せでない理由 ~」より字幕を転載


ラメッシ
「幸せでない理由は何ですか? 個人が行為しているという感覚が幸せでない理由です」


質問者
「どのようにして個人が行為しているという感覚を取り除くのですか? もし、本当に取り除く事が出来たと思っても、それは、別の個人が行為しているという感覚が取り除いたのではないのですか?」


ラメッシ
「私に個人が行為しているという感覚が無くなる事が起こりました。
私は何もしませんでした。私が持っているものが何であろうと、
私が持っていないものが何であろうと『それは起こっている事です』
これが最も重要な事です。核心です! そういうわけで、今、私はあなたに話しました。


 新聞の中で成功した人のとても面白い記事がありました。成功した医者の人の話です。
どのようにして成功者になったのですかと聞かれ、彼はこう答えます。
1つめには、私には知性があります。
2つめには、私がしたい事が何であれ、丹念に細心の注意を払って考えます。
3つめには、私にはスタミナがあります。従って、私はたくさん働く事が出来ます!
私は私自身のこれらの資質を外側から得ていません。これが私の言いたい事です!
そして、これらの「神の資質」によって、私は成功者になりました。拍手お願いします。
  (新聞記事の中での医者への質問を読む)
 私はそのようには行動できません。それが、私にとっての問題です。
で、一つお尋ねしたいのですが、
私は長い間、あなたを敬服しております。でも、私にはあなたの持っている資質が
ほとんどないという事が起こりました。
 しかし、私はお金を持っています。あなたのそれらの資質はどこで買えますか?
あなたを成功に導いた資質はどこで買えますか?
これらの資質は、どこで入手するのでしょうか?


『これらの資質を持つ事が起こったのです』
神の意思、または宇宙の法則に従って、
人間と呼ばれている”心体”の運命が決まります。
そして、運命に従い、これらの資質の集まりが、
この"心体"の中に備わる事が起こったのです。


質問者
「でも、目的を達成するには、自助努力も必要ではありませんか?」


ラメッシ
「はい。でも、もし自助努力する運命なら、自助努力さえ起こります。
三次元の存在は、自助努力をコントロールする事は出来ません」


  
★YouTube動画「ラメッシ、ラメッシの教え」より字幕を転載


何が、あなたをここに連れてきたの?
何を、あなたは探しているの?
どのくらい、あなたは探し続けているの?
あなたは、真実は何か知っているの?
さあね
私が知っている真実は、"私はある"、"私は存在する"ということだけ
私たちの真実の本性は、深い眠りの中にあります
それは、この瞬間に確かに存在します
しかし、私たちは、それに気づいていません
あなたは既に知っています。あなたの内側に神がいることを
あなたは知っています。あなたが存在していることを
この知識、”私はある”、"私は存在する"は、
あなたの内側に神がいることです
理解しなさい。神の意思がない限り、何も起こらないことを
そして、あなたの好きな事をしなさい
これ以上、簡単な事があるでしょうか?
あなたは、絶対、真実を知ることは出来ません!
なぜなら、あなたが真実だからです!
愛は、他者のために何かをしたがっています
何も見返りを期待せずに


エゴとは、あなたが行為者だと感じる気持ちです
別々の存在と感じる気持ちがエゴです


悟りとは、マインドが完全に空っぽであることです
あなたは、それを得るために出来ることは何もありません
あなたのするどんな努力も、
それに対しての障害になるに違いありません


探求者は、自分を苦しめる全ての修練を続けます
そのような修練は、まさにエゴを強化するという認識なしに
そして、それが探求者に自然で自由な状態になることを妨げています


明け渡しすることですら、
あなたがコントロールできないとはジョークです
なぜって?
なぜなら、個人が「私は明け渡します」と言うことであれば、
その明け渡しじゃ、個人のエゴです
つまり、私の言っていることは、
明け渡しすら、あなたの手の内にはないということです


もし、あなたが悟りと100万ドルを選ぶ場合には、
100万ドルを選びなさい!
なぜなら、もし、あなたが100万ドルを選ぶならば、
そこには、その100万ドルを楽しむ誰かがいるでしょう
でも、もし、あなたが悟りを選ぶなら、
そこに悟りを楽しむ人は誰もいません


悟りへの最後のステップは、
あなたが、悟りは起こらないかもしれないという事を、
完全に受け入れたときに起こります


自由とは、探求者が悟りが彼に世界中の何よりも
幸せを与えるという期待からの自由です


"観ている"が起き、"私"は存在しないという気づきがあるとき、
あなたは、「私は誰か?」と問う必要はありません


心は、単に思考の集まり、または、印象の集まり
それらが、この"私"を作り出します
このセルフイメージである"私"を
エゴを作り上げたその力だけが、
エゴを滅ぼすことができます


あなたが神の意思を完全に受け入れたとき、
神だけが、全ての存在を通して機能していることを、
あなたは理解します


あなたは思います
私は話し、あなたは聞いている
そして、あなたは話し、私は聞いている
しかし、私はこう思います
話している、聞いているは、
1つの出来事をして純粋に起きます
意識の中で、神の意思によって


あなたは「彼ら」と思いました
こうして、問題は発生します
誰も何もコントロール出来ません


あなたは、
全ての人間、彼らがしていることに、
責任があると思いますか?
個人に責任はありません
人類は、とてつもなく大きな知性を持っていますが、
もし、個人に自由意志があるというのなら
なぜ、世界はこのような状況になるのでしょうか?


起こることは何であれ、
神の意志であるということを受け入れたとき、
祈りは、あるがままになるでしょう


私に、あなたの意志に耐える力を与えてください
私に、驕ることなく、あなたの恩寵に耐える力を与えてください
私に、生きることに耐える力を与えてください


もし、あなたが
「(あなたに起こる)行為はあなたの行為でない」
という事を本当に理解したならば、
もうこれ以上、理解することはありません


この教えは、とても大きな自由の感覚をもたらします
責任と罪からの自由
もし、エゴがそこに、まだあるのならば、
完全な自由と同じ感覚が、
エゴによって無力感として誤解されるでしょう


起こることは全て神の意志だということを、
完全に受け入れる事ができるのならば、
あなたは、したい事を何でも自由に出来ます
あなたの好きな事はなんであろうと、
あなたが決めてする事がなんであろうと
まさに、神があなたに好きになってもらいたい、
決めてもらいたい事なのです


私は、あなたにラメッシに気をつけろとは言いません
なぜなら、ラメッシは本当に単純に存在しないからです


しかし、私はラメッシの教えには気をつけろと言うでしょう
その教えを、あなたのモノにしようとしないでください
教えは受け入れなさい
しかし、あなたのモノにしようとしないでください
その意味とは、
行為者でないということを受け入れることが、
あなたの利用できる手段と思わないことです


あなたは尋ねます
「師は弟子を愛するのですか?」
師は弟子を愛しません
愛とは、師と弟子の間で起こるものです
愛には、非個人的と個人的なものがあります
もし、誰かが「私はあなたを愛している」という場合は、
それは個人的です
もし、愛が起こる場合は、それは非個人的です


個人的な愛は、執着です
個人的な愛は、憎しみに変わる可能性があります


もし、弟子たちの愛が非個人的な場合は、
距離は重要でありません
それは、たとえ弟子が師と1万マイル(1万6093km)離れていても、
変わらずに愛はあるでしょう
非個人的な愛は、それ自身で、
師のために何かをしたいという形をとって表現されます
私は、師マハラジに会った時、
私の中で巨大な量の感謝が湧き上がってきました
師のためになら、
出来ないことは何もないというぐらいの感謝が




「意識は語る ラメッシ・バルセカールとの対話」
編者・ウェイン・リコーマン
翻訳・髙木悠鼓(たかき ゆうこ)
発行所・ナチュラルスピリット 
意識は語る―ラメッシ・バルセカールとの対話のカスタマーレビューを読むだけでも参考になる↓
★この本のレビューに素晴らしい文章が2つあったのでレビューを転載
https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4864511470


★★★★★ラマナ・マハリシ、ニサルガダッタ・マハラジよりもラメッシ
2019年5月18日レビュー
日本語で読める非二元のテクストとしては質量ともに最高のものだと思います。


ラメッシ・バルセカールはニサルガダッタ・マハラジに長年師事していたことで最終的に悟りに至ったとされていますが、ラメッシはラマナ・マハリシにも直接教えを受けています。ですから、この二人の偉大な聖者の教えをもっともよく知っていて、自身も聖者であるのがラメッシ・バルセカールです。


また彼はインテリで、銀行の頭取をつとめていたほど優秀な人物で、英語も堪能であり、マハラジの通訳も行ってきました。その彼がラマナ・マハリシの真我探求(「わたしは誰か?」と問いなさい)について、ラマナ・マハリシはタミル語で話していて、タミル語で彼が言ったのは『このわたしとは何なのか? を問いなさい』という意味の言葉であったと述べています。


ラマナ・マハリシの日本語で読める本でも、「わたしは誰か?」となっていますが、この問いかたでは、最終的に導かれる答えはなんらかの「誰か」になってしまいます。しかしながら真我とは、私たちが自分(=誰か)だと思っているところの自我が幻想であることを見抜いたときにあらわれる、一なる意識とつながったより大きな「自己」のことです。つまり、わたしは誰か? といくら問うても、真我にいたることはありません。


同様に、ニサルガダッタ・マハラジの言葉もやはりタミル語で話していました。現在日本で読めるマハラジの「わたしは在る」は、マハラジの通訳がタミル語を英語に翻訳して話した言葉を聞いたモーリス・フリードマンが英語で書いた本を、日本の訳者が日本語に翻訳したものです。


ラマナ・マハリシの真我探求はその一例ですが、このような伝言ゲームの結果、他にも多くの誤訳によって、ラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジが伝えた本当の教えを日本語の本で正確に学べると考えるのは、無理があるでしょう。


翻ってラメッシ・バルセカールは、自らが英語話者であり、本書の対話においても彼は英語で話しています。ですから、聞き違いがなければ英語版においてはラメッシの口から出た言葉がそのまま書かれてあると期待できます。そうであれば、日本語訳への不安は先ほどの二人の例に比べれば格段に少ないでしょう。


この2点だけをとっても、日本で学ぶには、ラマナ・マハリシ、ニサルガダッタ・マハラジよりもラメッシ・バルセカールなのです。


さらにいえば、ラメッシの教えは「存在する全ては意識である」という言葉に集約されるのですが、この言葉の意味が腑に落ちれば、この長大な対話集で交わされる難解な話も、なんとか読みこなされるでしょう。


同じ聖者といっても、各々の到達した意識レベルは違いますし、その人のバックボーンによって語彙の多寡も大きく違います。もっといえば、悟りに到達する以前の知的レベルによっても、覚醒後に話す言葉の分かりやすさ、高度さも大きく違うはずです。


ですから、知名度でいえばラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジのほうが遥かに有名ではありますが、はっきりと言うなら、そのお二人よりもラメッシ・バルセカールの方が優れた教師であるとわたしは思います。


★★★★★納得のいく絶望感
2016年9月8日レビュー
啐啄の機という言葉がありますが、まさに今この時に読んだことの幸せを感じています。思えば気づきから始まり、クリシュナムルティやスマナサーラ・トニーパーソンズの非二元の世界までさまざまな書籍を読んできました。自分なりに一生懸命手探りながらもいろいろなやり方を真似してやってまいりました。還暦をむかえ、多少行き詰まりを感じるこの頃でおりましたが、たまたま本屋で手に取ったこの本によって視界がいっぺんに開けた気がします。開けた結果は、非二元の本を読んだあとのみもふたもない絶望感というより、納得のいく絶望感といった方があっているような気がします。
この本のおかげで、本棚の精神世界の本を全部捨てることができました。もう保有しておく意味がありません。この本を読まれた方はおわかりでしょうが、悟りを考える・追及するということ自体の無意味さを深く認識することができます。ただただ目の前のことに集中して生きていくしかありません。ただ、この本を表面だけで読んでしまうと、意味がまったくわからず読まなくなってしまうか、または間違った理解のままそんなものかで終わってしまう可能性が高いと思います。何回も何回も読まれるとよいと思います。

レビューの中に私の知らない故事成語があったので意味をネットから転載
啐啄の機(そったくのき)啐啄同時
由来
碧巌録(へきがんろく)
中国、宋(そう)代の仏書。10巻。中国禅宗五家の一、雲門宗の雪竇重顕(せっちょうじゅうけん)(980―1054)が、趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)や雲門文偃(うんもんぶんえん)を中心とする古則公案百則を集めて頌(じゅ)を付した『雪竇頌古(じゅこ)』に、臨済(りんざい)宗の圜悟克勤(えんごこくごん)(1063―1135)が自在に評釈を加えた書。古くは『碧巌集』という。
・「碧巌録―一六」に出て来る話から。九~一〇世紀の僧、鏡きょう清しょう禅師は、常々、「ひな鳥が卵からかえるときには、『啐(ひな鳥が内側から出ようとすること)』と『啄(母鳥が卵を外からつついて殻を割ってやること)』が同時に行われる。それと同じように、禅の師匠も、弟子が悟りを開こうとする瞬間を見抜く力を持っていないといけない」と述べ、その瞬間のことを「啐啄の機」と呼んでいた、ということです。
・雛鳥と親鳥が、内側と外側からつつくタイミングが一致することで、殻が破れて中から雛鳥が生まれ出てくる。 このように、両者の動作が一致することにより目的が達せられる「両者が相応じる得難い好機」のことを「啐啄の機」あるいは「啐啄同時」という。
・禅で、弟子が悟りを開くことができる段階に達したその瞬間に、師匠が悟りのきっかけを与えることのたとえ。転じて、ものごとを成し遂げるための、えがたいチャンスのたとえ。


嚙み砕いた説明↓


啐啄同時(そったくどうじ)
『碧巌録』第七則
法眼禪師。有啐啄同時底機。具啐啄同時底用。方能如此答話。


法眼禅師(ほうげんぜんじ)
啐啄同時底の機有り(そったくどうじ ていのきあり)
啐啄同時底の用を具して(そったくどうじ ていのゆうをぐして)
方に能く此の如く答話す(まさによくかくのごとくとうわす)

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